とのみ思つてゐたが、そのうちに文平君からまだ四册殘つてゐたと言つて送つてよこして呉れたのを見ると、實際は三十一番まであつて、隱居三十歳の頃から七十餘歳まで、年代から云へば文政九年から明治三年までおよそ四十餘年間に亙る街道生活の日記帳である。それを見ると、御傳馬御改めのことから、飛脚、問屋場附米及び附荷、御救ひ米の賣出し、水損じの見分け、木曾街道の御用出勤、御繼立のことが出てゐて、宗門改めや罪人追放のことも書いてあり、疱瘡に罹つて途中に病死した旅人のことも書いてあり、通行の記事としては、諸大名、御鷹方、大阪御番衆、例幣使、尾州御材木方、寺社奉行をはじめ、公儀御普請役、御奉行道中取締役、各宿日〆帳簿御改め役等の諸公役から、伊勢や善光寺への參詣者、江戸藝者、義太夫語り、長唄の師匠、太神樂なぞの諸藝人、稀には畫師や算術の先生までがあの宿場に入り込んだことも書いてあつて、およそ街道に關することはわたしのやうに宿場全盛の時代を知らないものにも手に取るやうに分る。昭和二年のはじめには、わたしはすでに『夜明け前』の腹案を立ててはゐたが、まだ街道といふものを通して父の時代に突き入る十分な勇氣が持てなかつた。といふのは、わたしの祖父や父が長い街道生活の間に書き殘したものもいろ/\あつたらしいのであるが、日清戰爭前の村の大火に父の藏書は燒けて、參考となる舊い記録とても吾家にはさう多く殘つてゐないからであつた。これなら安心して筆が執れるといふ氣をわたしに起させたのも大黒屋日記であつた。その年にわたしは一夏かゝつて大脇の隱居が殘した日記の摘要をつくり、それから長い仕事の支度に取りかゝつた。
好かれ惡しかれ、わたしたちは父の時代を知らねばならない。それをするには、わたしはやはり『言葉』から入つて行つた。『言葉』から歴史に入ることは、わたしなぞの取り得る眞實に近い方法だ。それを思ふと、おのづから讀み出でた歌や、根氣につけた日記や、その他種々な記録を殘して置いて呉れた過去の人達には感謝しなければならない。
過去をさぐればさぐるほど、平素のわたしたちが歴史上の知識と呼んで來たものも、その實はきはめて曖昧なものであつたことを知る。といふのは、兎角わたしたちは先入主となつた事物の見方に支配され易いからである。『夜明け前』には嘉永六年以來の木曾街道のことが書いてあるから、あの中には參覲交代の諸大名や公用を帶びた御番衆方などの通行の記事がよく出て來るが、やれ何百人からの人足を木曾谷中から寄せただけではまだそれでも手が足りなかつたの何のと、大袈裟なことばかり。ところが、あの地方に殘つた古帳なぞをしらべて見ると、今日わたしたちの考へでは信じ難いやうな事實があり/\ と隱れてゐるのだから驚かれる。
過去が無造作に掘り起せるものでないことは、今度わたしも『夜明け前』を書いて見て、つく/″\それを思ひ知つた。昔は一藩の家老が地方を巡見したといふだけでも、ちよつと今日の尺度《ものさし》にはあてはめられない。どんな遠近法をわたしたちが見つけるにしたところで、それは『言葉』の現實性を目安にする外はないと思ふ。信州埴科新地村の山崎氏方には天保九年度の『御巡見樣御馳走、御役人樣御宿、御書上帳』なるものが殘つてゐる。それは松代藩の家老一行があの地方を巡見した折のことらしいが、その書上帳によると、家老上下三十人(御馬一疋)、使者上下九人(馬一疋)、奉行は道橋奉行の組を合せて上下十九人(馬二疋)、火消三人、足輕衆十人、代官上下五人、醫師上下十二人、祐筆四人、附添勘定上下八人、徒目附上下三人、大工頭八人、小頭二人、道橋元締二人、賄方手代二人、同じく目付三人、先拂と注進〆て六人、飛脚二人、手※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り二十四人、掃除方八人、仲間十四人、張番組十二人、駕籠十八人としてあつて、それに宿方の物貸宿、人馬割場、圍宿、近村の役人宿、馬宿、名主から、御宿詰御勘定亭主役、手代、料理人までが書き出してある。一藩の家老が地方巡見の際にすら、その蔭にはこれほどの人の動きがある。過去に隱れてゐるものはこの類だ。
同じ中仙道筋でも、追分宿には問屋場の他に街道を通過する荷物の貫目御改所なるものが設けてあり、そこには陣屋役人の詰所もあつたやうで、その構造は備後表の縁付《へりつき》の疊を敷いた瓦葺の建家と、葺おろしの下家との二軒より成り、その坪數も三十三坪餘はあつたといふ。これなぞは特別の構造と見てよく、普通中仙道筋の問屋場は二間幅ほどの表入口に三尺の板庇をつけ、入口は障子、敷居下は羽目板にして蹴込みを取りつけ、宿役人の詰所の方も二間四方ばかりあつて、板縁の押入れが取りつけてあつたものらしい。馬籠宿本陣附屬の問屋場の構造も先づそんなところであつたらうと思はれる。
街道筋の宿役
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