ンは短かつたが、わたしたちは君の家族をこの地に見るだけにも滿足した。南の一方に開けて、東と北と西とに山を負ふ盆地の地勢をなした京都の市街の一部を君等が住居の二階から、又、樂しい樹蔭の多い若王寺の裏山の位置から望み見るだけにも滿足した。せめてこの都會に北西の山の間が開けてゐたら、とは今度來て見て、胸に浮べたことだ。この夏季の熱と光とを防ぐために、京都人は二階を低くし、窓を狹くし、格子を深くし、壁を厚くし、部屋を暗くして住むとも聞く。これを知つて見ると、わたしは今まで漠然としか抱いてゐなかつた吾國の古典にある季節の感じを改めてかゝらねばならないやうな氣もする。もう一度清少納言なぞの書きのこしたものをあけて見たら、京都の夏がいろ/\とあの草紙の中に見つけられて、例へば結縁《けちえん》の説教を聽きに行つた日の暑さの描寫なぞも、今までよりはつきりと感じられるであらうと思ふ。兎に角、わたしたちは關東の氣分で京都にある一切のものを呑み込み易い。やさしい京都言葉ですら、その實弱々しいものではない。よく聽いて見れば、一語々々張りのある抑揚の響きをもつてゐる。これほどのアクセントも東京言葉にはないもののやうだ。午後の四時頃、わたしたちは彦根泊りで京都を立つた。大津、石山、草津、安土――わたしに取つては四十年前の旅の記憶の忘れられずにある驛々を汽車の窓から見て通り過ぎた。
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十四日。
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彦根滯在。
曾て青年時代の馬場君がこの地の中學に教鞭を執つたことがあり、關ヶ原を通り過ぎて上京する度に、その旅の話のよく出たことなぞが思ひ出される。わたしたちの泊つた樂々園といふは、もと井伊氏の下屋敷とか。古城のあとの一區域にその下屋敷があつて、庭も廣く、つゝじ咲き殘り、黄ばんだ六月の花は眼にある若草を一面に明るく見せてゐた。城として好いところは、城址としても好いといふある人の言葉もわたしたちを欺かない。ちやうど旅客もすくない時に泊り合せて、多くの部屋を見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ると、西に湖水の眺望がひらけて、青い蘆を渡つて來る風の涼しい座敷もある。まるまげに髮を結つた女中が來ての話に、神戸邊のある年老いた商人を一夜の客として泊めて見たところ、その人は東京への汽車の往き還りにいつかこの彦根に泊つて見たいと心掛けながら、漸く六十年の間に一度の
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