んこ別れの昔を感ずることは出來ても、それを説き明すといふことは出來ない。しかし、『あんこ』といふことは、わたしの郷里の方でも言ふ。木曾では女馬をあんこ馬とも言ふ。あんこ別れはしばらく馴染になつた土地の女子に別れるの意味であらう。

 わたしたちが澁川から伊香保に着いたのは、晴れたり曇つたりするやうな日の午後で、時に薄い泄れ日が谷の窪地に射して來たり、時に雷雨がやつて來たりした。輕井澤あたりのやうな空氣の乾く高原地へ行つたともちがひ、わたしたちは山の中腹の位置に身を置いて、思ふさま、うち濕つた山氣を呼吸することが出來た。一方に空がひらけて、旅館にゐながらでも、遠い山々を望むことの出來るやうなところだ。秋はさぞかしと思はれる。
 こゝへ來て聽きつける小鳥の聲も、わたしには自分の郷里を思ひ出させる。あの木曾山に多い、杉、檜、それから栗の林なぞは、この伊香保の里にもある。こゝは自分の郷里ほど深い谷間でもなく、又、あれほど大きな森林地帶でもないが、そのかはり自分の郷里にはないものがある。熱すぎるくらゐであるが、しかし豐富な山の湯がある。

 伊香保の里が水に乏しいことも、また自分の郷里を思ひ出させる。ケエブル・カアで登つて行つて見れば、山上には榛名湖のやうなところがあつて、鯉、鮒、さてはわかさぎなぞの養へるほどな水を湛へながら、田畠を開拓しようにも灌漑の方法もなく、熱い温泉をうめる水もないとは、不思議なくらゐのところだ。先年の伊香保の大火もまたそのためと聞く。同じ古い温泉地でも熱海のやうに無制限な發展の出來ないのは、かうした自然の制約があるからで、そこに土地の人達の惱みもあらうと察せらるゝ。そのかはり、こゝの山間には好い清水が湧く。その清さ、たまやかさは海岸の地方にないものだとのことである。ある人の言葉に、溪水を飮む地方の人は心までも潔《きよ》いとやら。日頃飮む水の輕さ、重さ、荒さ、やはらかさが、自然とわたしたちの體質や氣質にまで影響することはありさうに思はれる。その意味から言つて、伊香保がどことなく田舍めき、他の温泉地に見るやうな華美がすくなく、土地のものはむしろ昔ながらの質朴を誇つてゐるといふのも、偶然ではないかも知れない。

 山の湯たりとも人の發掘したものには相違ない。昔の人はこゝに神佛禮拜の靈場を結びつけ、今の人はスキイ場なぞの娯樂と運動の機關を結びつける。さうい
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