lの意匠を受け繼ぎ受け繼ぎして來たものであらうが、しかも舞臺の上の人はみな新しい。
能の舞臺には一曲ごとに變化する背景もない。幕といふものもない。たゞ松の緑の構圖を以てした簡素な板戸があるのみだ。そこには一切の陰影となるべきものを悉く追ひ出してあるやうに見える。この單調を破つて、平地に波瀾を引き起すことは容易でない。先づ基調を起して來る笛、引き續いて起る大鼓小鼓の音、その間にまじる驚くばかり激しい掛け聲、それらの甲高《かんだか》く強い音と、やさしく柔い音との調節にはじまつて、やがて肉聲の合唱が續く。わたしたちのまご/\してゐる心はいつの間にか劇中の世界へと連れて行かれる。能の演技にあつてはこのオーケストラなり、コオラスなりの働きが一通りでないことを知る。
能の舞臺の位置は、所謂アンフィシヤタア風の演技場に比べて、ずつと高い。仰ぎ見るほどの位置にはあつても、見おろすやうな位置には造られてない。この位置の高さは、舞臺の正面の前に、あるひはその周圍に、ある空虚な深さをつくる。舞臺に立つ能役者が正面の柱の側まで進み出でゝ來る時に、殊にその效果を感じ過ぎるくらゐだ。
古い散樂と言つた時代から能樂に移る頃の舞臺の構造はどんなものであつたらうか。あの舞臺の上部に原形を殘したやうな屋根の形といひ、三方より見られるやうに露出した舞臺面の意匠といひ、日光の導き方から、ある意味での光線の無視といひ、正面の背景、隱れた樂屋の位置、すべてが屋外の裝置でないものはないやうな氣がする。言つて見るなら、今見る能の舞臺といふものはもつと日光の滿ちた屋外へこのまゝ持ち出すことも出來ようといふ氣さへして來る。能の演技からわたしたちの受ける印象は、繪畫的であるよりも、むしろ彫刻的であるが、さういふ印象の起つて來るといふのも、一つはその舞臺の構造、裝置、あるひはその高さなぞの約束にもとづくことを思ふ。
能には、殘存した中世そのまゝのやうな稚拙がある。
近代の曙らしい憂鬱も感じられる。
それにしても、あの充實した感じはどうだ、舞臺はさながら嚴肅な道場のやうにさへ見える時がある。
こんなに美しいものが殘つてゐるのに、それを知らずにゐたのかと思ふほどわたしを驚かしたのは、喜多六平太氏が受持つた役の蝉丸の面だ。わたしたちは生きてゐる人の動いた顏に行くよりも、反つてあの一見靜物のやうな面に
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