に於ける佛教の信仰が印度教の大きな影響を受けるに至つた以後のことではあるまいか。
貫之の土佐日記なぞを見ると、男のする日記を女もして見ると言つてあり、當時男のもてはやした文學が憶良の『悲傷亡妻詩』の序や、または家持の大伴池主に報いた詩の序の延長のやうな漢文口調のものであつたらうかと想像すると、支那文化の影響も大きいといふ感じがする。貫之なぞはそれに對して大和言葉のために戰つた人と言つていゝ。
一體、平安朝時代は、前代の大陸的な時代とも違ひ、徐々に國民的なものを打ち建てゝ行つた新時代であるとも言はるゝ。しかし、これは壓倒的な大陸の影響と戰ふことに依つてのみ成し就げられて行つたことを忘れてはなるまい。そこには幾多の大陸の惡影響が蔓《はびこ》つてゐたこと、又、唐土そのものもすでに萬葉時代に交通した唐土ではなかつたことをも想ひ見ねばなるまい。
わたしは山口隆一君より贈られた一册の過海大師東征傳を愛藏してゐるが、過海大師とは奈良招提寺の鑑眞和尚の事で、この唐僧が佛法の戒律を傳へに來朝したのは、平安遷都より三十年ほど前にあたる。
芭蕉の『笈《おひ》の小文《こぶみ》』を讀むものは、あの中に鑑眞和尚のことに關した記事を見つけるであらう。芭蕉が大和めぐりの旅を終り、高野山から和歌浦の方を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、奈良まで引き返して來たのは、ちやうど鹿の子を産する若葉の頃で、その折に招提寺を訪ね、鑑眞和尚の像を拜んだとある。人も知る『若葉しておん眼の雫ぬぐはばや』の芭蕉の吟は、この盲目な唐僧の像に對してである。
こんなことをこゝに書き添へて見るのも、他ではない。鑑眞が幾多の途中の困難と戰つた後で、漸く薩摩の國の港に到着し、それより筑紫の太宰府から難波を經て、東大寺に入つた時は、宰相、右大臣、大納言已下の官人百餘人の訪問を受け、吉備眞備は正四位下朝臣の格で勅使として訪ねて來るほどのもてなしを受けたとのことであるが、この唐僧が東征の志を果して自己の周圍に見出したものは何かといふに、それは實に當時の佛教が早くも政治的な黨爭の渦中に卷き込まれてゐたことであつたといふ。
在原業平は貞觀時代の人である。その時代を念頭に置いて、それから朝臣の歌に行くと、あの多感な歌人の位置もいくらかはつきりして來るやうに思はれる。おそらく新時代の先驅となつたほどの人でその周
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