。と戰はなかつたものはあるまい。
業平はわたしが好きな古人の一人だ。あの和歌の高い香氣は、おのづからにしてロマンチックなものだ。朝臣はさびしい道を歩いた人かも知れないが、そのかはり後から歩いて來るものを喚び起した。もし朝臣のやうな人が後の平安朝時代の諸歌人のために新しい道を開拓して置かなかつたら、と考へて見る時に、あの古人の足跡の深さがわかる。
こゝですこし支那文學の影響といふことをも書きつけたい。平安朝時代に於けるその影響は今更言つて見るまでもないが、しかしそれがどの程度のものであつたらう。清少納言の枕の草紙なぞを見ても、いかに當時の人達が白氏文集を愛したかはよくうかゞはれるが、それが李杜王三家に及んでゐたとは、どうも思はれない。これは李杜王三家に見るごときおごそかな氣魄を掴むといふことよりも、むしろもつとものやはらかな情緒に就いた當時の人の心の傾向を語るものであらうか。あたかも古代佛教徒の男性的な鍛錬から離れて、もつと易く行ける道に就き、阿彌陀の名をとなへ、空也の念佛に餘念もなくなつたのと、その趣を同じくしてゐるとも言へるであらう。
北條氏時代に於ける蒙古人の襲來(元寇)は歴史上最も注意すべき大きな出來事の一つである。あれからいろいろなものが變つて行つたであらう。あれはわが國にとつての大きな出來事であつたばかりでなく、支那全土に亙つて大きな破壞を持ち來したものであらうとも思はれる。わたしは、大痴山人とも言ひ黄鶴山樵とも言つた王蒙が蒙古人の支配の下に忍耐してあの藝術上の仕事を仕上げて行つたことを想つて見る。再び漢民族の世となつて頭を持ちあげた石濤にしても八大山人にしても皆あの王蒙の仕事を受け繼いだ人達であつたらう。一概に東洋人の藝術を消極的、隱遁的であるとして、その底に光る涙を見ない人は話せないやうな氣がする。
應仁元年に四十八歳で明に渡つた畫僧雪舟が大陸に見出したものは、その大きな破壞の過ぎた跡で、そこには江南に發達した宗教と藝術があり、遣唐使時代の昔に思ひ比べたら、全くの別天地ではなかつたらうか。
いろ/\書きつけて見たいことは多く、文藝上の近代のはじめを足利時代に置き、支那より禪僧雪舟なぞの歸來するに及んでロマンチックな一新時代の開けて來たのがその近代のはじめであるとする岡倉覺三の意見も紹介したく、徳川中期から明治年代へかけて明清あたりの先
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