フことはしばらく措くとしても、藤原宮に遷つてから五年目に成つた藥師寺の佛教美術と、人麿等の和歌とはどういふ關係にあるだらう。古代の佛教が人麿等の文學に影をさしてゐるとは、どうも思はれない。それのやゝ感じられるのは萬葉時代も憶良や家持に降つて行つた頃である。萬葉集の中には、博通、通觀、滿誓、惠行、妙觀、その他の僧尼の歌をも納めてあるが、いづれも生き、愛し、死ぬる存在に、まともにぶつかつて行つた歌のやうである。後世の無常觀などで萬葉盛時の文學を律するのは至極の危險であるやうだ。
 わたしはもつと奈良朝の美術や宗教と萬葉集の文學との關係を考へて見たいと思つてゐる。それには先づ平安朝以後の時代の尺度を捨てねばならぬ。圓滿で美しい希臘《ギリシヤ》美術にも比較さるゝ奈良朝時代のそれとの關係を考へて見ることは、やがて萬葉集の文學の讀みを深めることになる。

 人麿は唐の李白、杜子美、及び王摩詰などの諸詩人に先立つてあの和歌を完成して行つた人のやうである。支那大陸の文學が李杜王三家を得て詩の最高潮に達した頃は、これを萬葉の諸歌人にあてはめて見ると、憶良あたりの時代にあたるかと思ふ。

 奈良朝から降つて平安朝に移ると、すべてのものが變つて行つたやうに見える。尤も、これは一朝一夕の變化ではなく、奈良朝も末になつてあの大伴家持がこの世を去つた延暦年代の頃には、すでに宮廷の事情も變り、君臣の關係も變り、寺院や僧侶の位置も變り、農兵の關係も變りつゝあつたばかりでなく、海のかなたより絶えずこの國に大きな影響を與へた大陸そのものすら變りつゝあつたやうである。さういふ中にあつて、ひとり日本の文學ばかりが舊態を保つてゐる筈もない。人の心が大陸的であつた時は過ぎて、同じ大和精神《やまとごゝろ》でもそのデリケエトな方面をあらはし來つた時がそれに替つて行つたやうに見える。

 僧最澄は唐土から歸朝して天台宗を傳へ、空海は歸朝して眞言宗を傳へた。これは新しい都の平安京に遷つた十二三年後のことであり、同時に印度及び支那方面に於ける創造的精神の變遷を語るものであるといふ。肉體を苦しめる難行苦行と、肉體的な歡びの崇拜と、その兩極端の不思議な結びつきは、密教の輸入以來のことのやうにも見える。平安朝時代の文學に、後になればなるほど多くの肉體的な歡びと迷信とをみつけることも、その由來する源は深いやうである。これはこの
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