ナある、ロダンほど彫刻を自然の要素に於て見た者はない』と云つてある。『あくどいまでに貪婪《どんらん》なロダンはそれだけの犧牲を拂つた。彼の歩む道は簡單ではなかつたのだ。複雜を極め、また困難であつた。さうして寧ろ彼は「理想」や「原則」を主張せず、手放しで彷徨したのだ』とある。この言葉も忘れがたい。理想や原則に嚴しく自己を縛りつけてしまはないで、むしろ失敗の多かつた氾濫に身を任せたロダンのやうな彫刻家もあつたのだ。
『思想』新年號を讀む。高坂正顯氏が論文の中に『我々は歴史を理性に於いて見るかはりに理性を歴史に於いて見なければならない』といふ言葉にも心を引かれて、氏の言ふ時に關する四つの見方の前に連れて行かれた。『一つは過去から現在を經て未來に向ふ時であつた。二つは未來から現在を經て過去に向ふ時であつた。三つは現在から過去と未來とへ行く時であつた。四つは永遠から過去、現在、未來へ降りてくる時であつた』とある。氏はこの見方から、單なる過去は歴史ではなくて現在に於いて生命を有するもののみが歴史であると言ひながらも、猶、發展する歴史が歴史の全部でなく、歴史の全部が連續的なのではなく、歴史は現在の内に盛り盡し得ざる深き意味を過去に止めることを指摘して見せてゐる。
 雜誌ではないが齋藤勇君が編輯する『文學論パンフレット』の中に、ヰルバア・エル・クロスといふ人の『近代英米小説』が出てゐる。織田正信君の譯だ。その中に『文藝の革新には常に幻想を伴ふものである』との言葉を見つけた。幻想を伴ふもの必ずしも文藝の革新にのみ限らないやうな氣がして、あの言葉も忘れがたい。

     著作者としての自分の出發

『著作生活を始めようとする時に私の書生流儀に考へたことは、兎にも角にも出版業者がそれ/″\の店を構へ店員を使用して相應な生計を營んで行くのに、その原料を提供する著作者が食ふや食はずに居る法はないといふことであつた。それからまた私の考へたことは、從來著作者と出版業者との間にわだかまる幾多の情實に拘泥して居るよりも、むしろ自分等は進んで新しい讀者を開拓したいといふことであつた。
 ――私が柄にもない自費出版なぞを思ひ立つたのは、實に當時の著作者と出版業者との關係に安んじられないものがあつたからだ。何とかして著作者の位置も高めたい、その私の要求はかなり強いものであつた。その心から私は書籍も自分で
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