Fのある縮れ髮、それから堅肥りのした精力的な體躯なぞは、今だにわたしの眼にある。
こんなことをこゝに書きつけて見るのも他ではない。あの瀧田君の記憶と中央公論とはわたしには引きはなして考へられないものであり、今日わたしたちがこの集のために作品を持ち寄るにつけても、一片懷舊の情禁じがたく、同時に瀧田君が後繼者としてその仕事を幾倍かに擴げた嶋中君に望むことも多いからである。こゝろみに日露戰爭以後の文學に縁故の深かつた雜誌でわたしの胸に浮ぶものを數へて見ても、太陽、新小説、文藝界、文章世界、それから舊早稻田文學、藝苑、新古文林、帝國文學なぞ、いづれも今は過去のものとなつた。その中にあつて中央公論が創立以來五十周年を今日に迎へると聞くことは異數とせねばならぬ。この長い骨折はわたしたちとしても感謝していゝ。
わたしは今、他の諸君と共に、こゝろざしばかりのものをこゝに持ち寄つた。又、これを機として、めづらしい作品集の出來たことを一つのよろこびともし、この集の内容にはかゝはりのないやうなこんな寢言をしるしつけて、序の言葉にかへたいと思ふ。
木の實、草の實
龍の髭の紫、千兩、萬兩、藪柑子《やぶかうじ》、さては南天の白と紅。隱れたところにある庭の隅なぞに、それ等の草木の實を見つけるのはうれしい。寄贈を受ける諸雜誌の讀物の中から、木の實や草の實にも譬へたいやうな二三の言葉を拾つて見ようと思ふ。
『河』といふ同人雜誌には、以前毎號の卷頭にゲエテの言葉を譯載した。あれは拾つても/\盡せない美しい珠のやうなものばかりだつた。その中に『自然には進化はない、變化があるばかりだ』といふ意味の言葉なぞはいかにもゲエテのやうな人が到達した境地らしく思つた。
『三田文學』新年號を讀む。譯載してあつた論文の中に、ヘエゲルの表現によればとして、『矛盾なるものはすべての領域――從つて藝術的上層建築の領域に於いても亦――に於ける歴史的過程の指導原理である』との一句には心をひかれた。
佐藤春夫君が編輯する『古東多滿』を讀む。その中に、ロダンの彫刻の特質を一つの氾濫と言つてある高田博厚氏の文章にも心をひかれた。彼ロダンの價値はこの多樣の氾濫から一つの要素を要約したことにあると云ひ、併しこの失敗の多かつた氾濫は彼の性癖や好みから直接來たものではなくて、むしろ彼の飽くことのない『自然探求の努力の成果
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