ス人々の力に待つことも多かつたことを想ひ起さずにはゐられない。
 明治年代以來、わが國に於ける雜誌の發達にも驚かれるものがある。成程、明治以前には澤山な書籍はあつた。しかし、雜誌のあつたといふことを聞かない。芭蕉、近松、西鶴時代の人はもとより、秋成時代から降つて京傳、馬琴、種彦、三馬時代の人になつても雜誌に物を書いたといふことは聞かない。まつたく雜誌の經營はわたしたちの時代に起つた一つの新しいあらはれで、もしその發達のあとをさかのぼつて見るなら、そこにもこゝにも活きた歴史の光景を指摘することが出來るであらう。自分の狹い視野の範圍から言つても、これまで雜誌のいとなみはつねに書籍刊行の事業に先んじて來たやうである。民友社、政教社、乃至女學雜誌社と數へるまでもなく、明治年代に看板をかゝげはじめた博文館のやうな大規模の出版會社までも書籍を後にして雜誌を先にした。これは編輯、印刷、發賣の便にもより、資金の囘收と市場の關係等の種々な事情から誘致されたことであらうが、しかしそれのみとは決して言ひがたい。それにはかうした氣運を導いた人々のあつたことを見逃せない。何といつても書籍の刊行には明治以前からの長い傳統もあり、それに携はる人々は仕事の性質からも兎角舊套になづみ易かつたのに引きかへ、雜誌の經營は多く活溌な新人の仕事で、その足どりも輕く、時を見る眼のさとさにもすぐれてゐたと言はねばならない。今は故人となつた瀧田君なぞはたしかにその一人に數へられるべき人であらう。
 瀧田君が雜誌の仕事に心身を投じはじめた頃の中央公論社はまだ新世帶であつて、同君は社主の麻田君を相手に臺所の相談にも預かれば、編輯も切り盛りし、廣告文にまで自ら筆を執るといふ風であつたと思ふ。わたしが瀧田君を知るやうになつたのも明治三十九年以後のことで、同君の新しい出發はやはりわたしたちと同じやうに日露戰爭以後の一大轉換期に際會した頃であつた。反省雜誌以來の中央公論が面目をあらため、文學の創作欄にも大に力を入れるやうになつたのは、その頃からであつたと記憶する。わたしは西大久保の方にあつた舊居でも、淺草新片町の方にあつた書齋でも、よく瀧田君の訪問を受けたが、一面には同君は文學の愛好者で、わたしたちが寄稿するものをところ/″\暗誦し、時には同君一流の批評を試みるほどの熱心さであつた。あの瀧田君が血の氣の多い頬、つぶらな眼、特
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