ハ譯を殘された作者でもあつた先生のやうな人が生れて來たことは、偶然ではないことを知つた。先生は文學の上で言葉の世界を豐富にしたばかりでなしに、今日陸軍で行はれてゐる軍事上の術語なぞも多く先生の考案によると云ふことを聞く。行くところとして可ならざるはないやうなその才能は驚かれる程で、博物館の館長も勤まれば、國語調査會の會長も勤まると云ふ人だつた。若い者の仕事などを喜んで助けると云ふやうなさう云ふ麗はしい性質を多分に持つてゐた人で、小山内君が自由劇場を始める時に、先生はイブセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を口譯し、それを鈴木春浦君に筆記させて與へたこともある。小山内君の新劇運動にも、その蔭には先生のやうな人の助力があつた。

 いつぞや正宗君、里見君と同席で、先生の噂などが出た折に、一體先生は東西の文學者の中で誰に私淑したらうかと云ふ問が出た。その時私は、先生が日頃の言説から押して、それはゲエテであらうかと答へて見た。そこで、ひとしきり私達の話はゲエテの生涯と先生の生涯の比較になつた。私はあの席で、二君にも話したことだが、ゲエテの生涯には何事につけても、身を以て當ると云ふところがあつたと思ふ。そこから、『若きヱルテルのわづらひ』のやうな青春の書も生まれて來たし、生の肯定の苦しみを描いた『ファウスト』のやうな劇的な主題を取り扱つたものも生まれて來たし、またあのゲエテの晩年に見るやうな深い自然觀にも到達したかと思ふ。そこへ行くと鴎外漁史は違ふ。先生はあの通りな明徹の人であつたから、何事にもゲエテのやうに深入りしなかつたのではなからうか。それにゲエテは先生の行き方ともちがひ、むしろ感性に重きを置き、感情こそ一切だと言ふやうな人であつたから、その生涯を先生に比較することがすでに無理かも知れない。

 鴎外先生の長い文學生涯から言つても、澤山な創作を殘されたのは先生の文體が一變してから後のことのやうである。『スバル』に『三田文學』に、先生の書かれるものは一頃よりは却つて若々しくさへ見えた。あの『舞姫』から出發せられた頃に思ひ比べると、表現の方法からして別人のやうになつた。先生のやうに長く精力の續いた人もめづらしい。幸田氏なぞがあの創作の筆を收めて、默し勝ちに暮さるゝやうになつても、まだ先生は長い歴史物を書いて倦まない人であつたところから見ると、やはり先生の内には他の先輩と
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