キくなく、比較的早く彼の作品に接した人達の中でも數種の英譯を手にし得たに過ぎなかつた。他の佛蘭西近代の作家にくらべて、彼の著作が吾國に傳へらるゝことのすくなかつた理由の一つは斯うした事情によるのであり、今一つは彼の大きさと深さとに入るためには相應の年月を要するからであつた。今囘、佛蘭西文學に精進する諸君の手によつてバルザック全集邦譯のごとき困難な仕事が企てられ、その著作の全貌を窺ひ知る機會の與へらるゝことは、何と言つてもよろこばしい。バルザックを讀む準備はわれひとの間に、すでに十分出來てゐると信ずるからである。

     ゾラ
[#天から10字下げ](ルゴン・マカアル叢書の編輯者より言葉を求められて)

『一日として事なき日なし』といふことを座右の銘としたゾラを今日に生かして見たい。彼は本國の方でも廣く讀まれ、その著作には多數に呼びかける要素を多分に持つた作家であるから、彼が今日の日本に出現したとしたら持前の健筆で忽ち日本の大衆をひきつけたことであらう。彼は現實を掴み出して紙の上にひろげて見せる逞ましい力に富んだ作家であるから、現代日本を觀察して何を捉へ何を赤裸々に描寫するか、興味ある問題となつたであらう。彼は實驗的な方法を文學に取り入れようとした作家であるから、かなり簡潔で、且つ明快な日本文を書いたであらう。彼は人間の獸性を突きつめて行く作家であるから、現代の社會を背景に取り入れた日本的ナナの物語が多くの讀者を戰慄せしめたであらう。然し彼は大衆に悦ばれるやうなものを書いても淺くなく、現實を曝露しても冷くなく、實驗的であつても濕ひがあり、好色の男女を描いても生氣と健康とを失はない。彼が現代日本の社會にそゝぎ入れるものは、何より先づこの生氣と健康とであらねばならぬ。彼の死後本國の方に擡頭した多くの文學者はいづれも彼の缺點を感知して起つて來た。彼とても全く人間を書き得たとは言へなかつたかも知れない。しかし、私は上に述べたやうな意味で、ゾラの叢書の飜譯を歡迎する。あのドレフュウス事件では人道のために惡戰苦鬪した彼が先輩ルウソオと枕を並べて巴里のパンテオンに葬らるゝ人となつたことさへ不思議であるのに、今またその遺著が現代の日本に要求され、諸家の筆に譯さるゝ日を迎へたことは、おそらく生前の彼が夢想だもしなかつたことであらうと思ふ。

     岡倉覺三

 再吟味といへば、
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