ェする。彼は部屋を明るくしようとして燈火をつけた。それがこの基督傳だ。トルストイの長い生涯の中でも、『アンナ・カレニナ』製作後は別人の觀があるが、今度わたしはこの書を手にして見て、それほど彼を變へたものは彼の内部よりも、むしろ外部にあつたらうといふことを感知した。さすがに、これが簡淨な筆で書かれてあることは譯文によつてもよく窺はれて、かの釋迦の言行を録した阿含の精神にも近いかと思はれる。
チエホフ
[#天から10字下げ](中村白葉君がチエホフの全著作を邦語に移すときゝて)
人生の冷たさ、温かさを簡潔な筆に盡して、姿あはれに情深きはチエホフの作品である。傳ふるところによると、曾てアンドレエフはチエホフの『三人姉妹』を舞臺の上に見、これこそほんたうの人生だと言つて、涙の流れるのを禁じ得なかつたといふ。このことは移してチエホフの全作品にあてはまる。すぐれた外國作者も數多くあるが、その中でわたしの最も好きな作者の一人はチエホフだ。彼こそまことの『笑』をこの世に持ち來した稀な文學者だ。
頃日、中村白葉君はチエホフの全著作を邦語に移すべく思ひ立ち、すでにその初期作品の飜譯を一卷に纏めたと言つて、わたしのもとへも新裁の譯本一册を分けて贈つてよこして呉れた。わたしはよろこびのあまり、早速君へ手紙を出して、君は好い仕事をはじめて呉れたと書き送つた。白葉君は『ライフ・ワーク』としてチエホフ全著作集の邦譯に着手せられたと聞く。これほど熱心で責任感の強い譯者が原作者の愛をわたしたちにまで分けられるとは、何と言つてもうれしい。おそらく、どんな氣質を異にしたものでも、この譯本を手にして、原作者が天才の誠實に打たれないものはなからう。またその表現の的確で、豐富なのに驚かないものはなからう。文字の純粹性の何であるかをさゝやいてわたしたちを勵まして呉れるのもかうした著作だ。わたしはこの十六卷の邦譯が完成されることを切に希望する。
バルザック
[#天から10字下げ](バルザック全集の刊行をよろこびて)
バルザックに就いては今更多言を費すまでもない。問題は今日に於いていかにバルザックを讀むべきかにあらうと思ふ。バルザックに歸れとは世界大戰以前の當時に本國の佛蘭西に起つた一つの聲でもあつた。從來、吾國にはバルザックを知らうとするものはあつても、その著作の英譯せられたものは
前へ
次へ
全98ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング