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富士の風や扇にのせて江戸土産
近江蚊屋汗やさゞ波夜の床
庭訓《ていきん》の往來誰が文庫より今朝の春
雨の日や世間の秋を堺町
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これは芭蕉が三十一歳より三十六歳の頃へかけての句である。
芭蕉がどうして江戸へ出るやうになつたかは明かでないが、これは伊賀上野の藤堂家を辭し、江戸に生活を送つた頃の作である。俳諧作者として漸く一家を成さうとする芭蕉が、いろ/\の意味で修業を重ねたのも、この頃であるらしい。
芭蕉とても伊賀時代から、いきなり野ざらしの境地に飛び込んだではない。いろ/\な人の世話になり、いろ/\な仕事にも關係して、江戸の市中に流寓してゐたらしいのもこの時代である。伊賀に歸省し、京都に赴き、歌道の奧儀について季吟から教へらるゝところの多かつたといふもまたこの時代である。
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夜ル竊《ひそか》ニ蟲は月下の栗を穿つ
いづく霽《しぐれ》傘を手にさげて歸る僧
盛りじや花に坐《そゞろ》浮法師ぬめり妻
夕顏の白ク夜ルの後架に紙燭とりて
櫓の聲波ヲ打て腸氷る夜やなみだ
髭風を吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ
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これは三十七歳より三十九歳の頃にかけての句である。俳諧革新の意氣は、先づこの『虚栗《みなしぐり》』の破調となつてあらはれて來てゐる。其角その他の氣鋭な詩人の中心として、當時の芭蕉を想像して見ることもおもしろいと言へばおもしろいが、實はこれらの句、隨分危く、讀み返して見るとひや/\する。芭蕉にもこんな試錬の時代があつたかと思ひやられる。
しかし芭蕉には、すでに伊賀を出る頃から『雲とへだつ友かや雁の生わかれ』のやうに、一句の姿を聳え立つやうに仕立てる傾向がなくもない。この傾向は『虚栗』の時代にはげしいはけ口を見つけてゐると思ふ。かういふ傾向が作風の單調を破つて、あたかも山脈の骨のやうに、ずつと後年の圓熟した作の中にまじつて出て來てゐることも見逃せない。
よく見れば芭蕉には、この時代にすでに次のやうな句もある。
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雪の朝獨り干鮭《ほしか》を噛み得たり
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
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更にまた次のやうな句もある。
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はせを植てまづにくむ荻の二葉哉
あさがほに我は食《めし》くふをとこ哉
世にふるはさらに宗祇の
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