、またそれの早く失はれ易いものもすくないかと思ふ。三度ばかりも湯をつぐうちに、急須の中の※[#「嫩」の「攵」に代えて「欠」、第4水準2−5−78]葉《わかば》がすつかりその持味を失つてゐることは、茶好きなもののよく經驗するところである。新茶の頃が來ると、私はそれに古茶をまぜて飮むのを樂しみにしてゐる。六月を迎へ、七月を迎へするうちに、新茶と古茶の區別がなくなつて來るのもおもしろい。
 新茶で思ひ出す。靜岡の方に住む人で、毎年きまりで新茶を贈つて呉れる未知の友がある。一年唯一囘の消息があつて、それが新茶と一緒に屆く。あんなに昔を忘れない人もめづらしい。私の方でも新茶の季節になると、もうそろ/\靜岡から便りのある頃かなぞと思ひ出して、それを心待ちにするやうになつた。
 簡單な食事でも滿足してゐる私達の家では、たまに手造りの柳川《やながは》なぞが食卓に上るのを馳走の時とする。泥鰌《どぜう》は夏のものだが、私はあれを好む。年をとるにつれて殊にさうなつた。
 蓴菜《じゆんさい》、青隱元、瓜、茄子、すべて野菜の類に嫌ひなものはないが、この節さかりに出るものはその姿まで涼しくて好ましい。冬の頃から、
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