短夜の頃
島崎藤村
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蠶豆賣《そらまめうり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)持ち※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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毎日よく降つた。もはや梅雨明けの季節が來ている。町を呼んで通る竿竹賣の聲がするのも、この季節にふさはしい。蠶豆賣《そらまめうり》の來る頃は既に過ぎ去り、青梅を賣りに來るにもやゝ遲く、すゞしい朝顏の呼聲を聞きつけるにはまだすこし早くて、今は青い唐辛《たうがらし》の荷をかついだ男が來はじめる頃だ。住めば都とやら。山家生れの私なぞには、さうでもない。むしろ住めば田舍といふ氣がして來る。實際、この界隈に見つけるものは都會の中の田舍であるが、でもさすがに町の中らしく、朝晩に呼んで來る物賣の聲は絶えない。
どれ、そろ/\蚊帳でも取り出さうか。これはまだ梅雨の明けない時分のこと、五月時分からもう蚊帳を吊つてゐると言つてよこした人への返事に、わざと書いて送らうと思つた私の戲れだ。せい/″\一月か一月半ぐらゐしかその必要もないこの町では、蚊帳を吊るのはむしろ樂みなくらゐである。蚊帳の内に螢を放して遊ぶことを知つてゐた昔の俳人なぞは、たしかに蚊帳黨の一人であつたらう。それほどの物數寄《ものずき》な心は持たないまでも、寢冷えする心配も割合にすくないところに足を延ばして、思ふさま長くなつた氣持は何とも言はれない。枕に近く、髮に屆く蚊帳の感觸も身にしみる心地がする。蚊帳は内から見たばかりでなく、外から見た感じも好い。内にまぎれ込んだ蚊を燒くと言つてあちこちと持ち※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る蝋燭の火を青い蚊帳越しに外から眺めるなぞも、夏の夜でなければ見られない趣きだ。
古くて好いものは簾《すだれ》だ。よく保存された古い簾には新しいものにない味がある。簾は二重にかけて見てもおもしろい。一つの簾を通して、他の簾に映る物の象《すがた》を透かして見る時なぞ、殊に深い感じがする。
團扇《うちは》ばかりは新しいものにかぎる。この節の東京の團扇は粗製に流れて來たかして、一夏の間の使用にすら耐へないのがある。圓い竹の柄で、全部の骨が一つの竹から分れて行つてゐるやうな丈夫なものはあまり見當らなくなつた。扇子にもまして、もつと一時的で、移り行く人の嗜好や世相の奧までも語つて見せてゐるものは團扇だらうか。形も好ましく、見た眼も涼しく、好い風の來るのを選び當てた時はうれしい。それを中元のしるしにと言つて、訪ねて來る客などから貰ひ受けた時もうれしい。
この節の素足のこゝちよさ、尤も、袷《あはせ》から單衣《ひとへ》になり、シャツから晒木綿の襦袢になり、だん/\いろ/\なものを脱いだ後で、私達はこの節の素足にまで辿り着く。私は人間のからだの中で一番足が眼につくと言つた足袋屋のあることを知つてゐる。それほど職業的な意味からでなく見ても、足の持つ性格の多種多樣なのには驚かされる。素足の表情ほどまた夏の夜の生氣をよく發揮するものはあるまい。
蚊帳、簾、團扇、それから素足なぞと順序もなくこゝに書いて來た。自分の好きな飮料や食物のことなぞもすこしこゝに書き添へよう。
茶にも季節はある。一番よくそれを感ずるのは新茶の頃である。ところが新茶ぐらゐ香氣《にほひ》がよくて、またそれの早く失はれ易いものもすくないかと思ふ。三度ばかりも湯をつぐうちに、急須の中の※[#「嫩」の「攵」に代えて「欠」、第4水準2−5−78]葉《わかば》がすつかりその持味を失つてゐることは、茶好きなもののよく經驗するところである。新茶の頃が來ると、私はそれに古茶をまぜて飮むのを樂しみにしてゐる。六月を迎へ、七月を迎へするうちに、新茶と古茶の區別がなくなつて來るのもおもしろい。
新茶で思ひ出す。靜岡の方に住む人で、毎年きまりで新茶を贈つて呉れる未知の友がある。一年唯一囘の消息があつて、それが新茶と一緒に屆く。あんなに昔を忘れない人もめづらしい。私の方でも新茶の季節になると、もうそろ/\靜岡から便りのある頃かなぞと思ひ出して、それを心待ちにするやうになつた。
簡單な食事でも滿足してゐる私達の家では、たまに手造りの柳川《やながは》なぞが食卓に上るのを馳走の時とする。泥鰌《どぜう》は夏のものだが、私はあれを好む。年をとるにつれて殊にさうなつた。
蓴菜《じゆんさい》、青隱元、瓜、茄子、すべて野菜の類に嫌ひなものはないが、この節さかりに出るものはその姿まで涼しくて好ましい。冬の頃から、
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