りに今度は帰って来たんです……彼地《むこう》から見ると、何故こう日本の人はコセコセコセコセしてるんだろう、そう思いますよ……私もそう長くは是方《こっち》に居られない人です……いずれ復《ま》た彼地へ帰ります……こんなにして、東京で貴方がたに逢えるとは思わなかった……」
過去ったことは過去ったことで、何のわだかまりも無いようなお新の様子を見ると、先ずそれに山本さんは感心した。
「お新ちゃんは、娘時代のことなぞは最早《もう》記憶していないんだろう」とさえ思った。
お牧とお新は火鉢の側で、旅らしく巻煙草なぞを燻《ふか》し燻し話した。白い繊細《きゃしゃ》な薬指のところに指輪を嵌《は》めた手で、巻煙草を燻すお新の手付を眺めると、女の巻煙草は生意気に見えていけない、そうは山本さんは思わなかった。反《かえ》ってお新のは意気に見えた。
何を為ても悪く思えないような女が世の中には有る。山本さんに言わせると、丁度お新はそういう女の一人だ。
山本さんは女達の為に、隣座敷を用意して置いた。それから一日二日の間、山本さんの部屋でも、隣座敷の方でも、女らしい笑声が絶えなかった。
鼻の具合の悪いお牧が手術を受けに入院する頃は、お新も東京にある親戚の家へ行った。
急に山本さんは寂しく感じた。どうかすると彼は旅舎の小娘を借りて、近くにある活動写真へ連れて行って、花のような電燈の点《つ》いたり、消えたりする楼上に席を取りながら、独りでそういう心を紛らそうとした。一時に囃《はや》し立てる太鼓、鈴、喇叭《らっぱ》などの騒がしい音楽が沈まった後で、クラリオネットだけ吹奏されるのを聞いていると、その音は灰色な映画の方よりも、むしろ眼前《めのまえ》に居る男や女の方へ彼の心を連れて行った。電燈が明るくなる度に、山本さんは睦《むつ》まじそうな若い夫婦の客を眺めた。後から見える横顔、房々した髪、女らしい首筋、細そりとしかも豊かな肩、そんなものを眺めてはお新に思い比べて見た。山本さんは彼女の形の好い前髪だの、優《やさ》しい頬《ほお》だのを、仮令《たとい》その人がそこに居ないまでも、想像で見ることが出来た。
他人の睦まじさを眺めると、余計に山本さんはそう思って来た。何故九年前には、もっともっと堅く彼女を抱締めなかったろう。何故遠くの方でばかり眺めて置いたろう。彼女が学校を卒業して、未だ何処へ嫁《かたづ》くとも定《き》まらなかった時、何故結婚を申込まなかったろう。
こんなことを考えては、旅舎へ戻って来た。彼は今度の帰朝に、支那から相応の貯蓄を持って来ていた。何に費《つか》っても可《い》いような金が二百円ばかりあった。彼女の為とあらば、錯々《せっせ》と働いて得た報酬も惜しくない。どうかしてその金を費おうと思った。
妹の療治は案外手間取れた。病院の寝台《ねだい》の上に仰《あおむ》きに成ったきり、流血の止るまでは身動きすることも出来なかった。お新は親戚の家から毎日のように見舞に出掛けた。終《しまい》にはお牧の方で気の毒がって、彼女に関わずに置いてくれと言うように成った。
寝ながら、不動の姿勢を取っているような妹の側で、時々お新と落合って、ありふれた言葉を取換《とりかわ》すというだけでも、山本さんには嬉しかった。これで妹が愈《なお》るとする、退院する、三越あたりで買物して、歌舞伎座の一日も見物すれば、いずれお新は帰って行く人である。太陽は今朝出たと同じように、明日の朝も出るだけの話だ。独りぼっちの人間は何処まで行っても独りぼっちだ。これが人生とすれば、山本さんには堪えられなかった。
もっと自分を幸福《しあわせ》にすることは無いか。そこから山本さんは思い立って、お新へ宛てた手紙を書いた。凍った土ばかり眺めていたお新が、熱海《あたみ》か伊東あたりの温暖《あたたか》い土地へ、もし行かれるなら行きたいと言っていることは、お牧への話で山本さんも知っていた。お新は産後と言っても時が経っている。嬰児《あかご》は月不足《つきたらず》で産れる間もなく無くなったとか。旅に堪えないというお新でも無いらしかった。
不取敢《とりあえず》手紙を出した。
この旅には、彼は一切の費用を自分で持つ積りで、お新に心配させまいと思った。温泉などのある方へ、彼女を誘って行く楽しさを想像した。
春とは言いながら未だ冬らしい朝が来た。山本さんは部屋にある姿見の方へ行って、洋服の襟飾《えりかざり》を直して見た。僅《わず》かばかりの額の上の髪を撫《な》でつけた。帽子を冠《かぶ》って、旅の鞄《かばん》を提げて、旅舎《やどや》から小川町の停留場へと急いだ。
朝日は電車の窓に輝き初めた。枯々とした並木を隔てて、銀座の町々は極く静かに廻転するように見えた。
約束の時間より早く、山本さんは新橋の停車場《ステーション》に着いた。汽車に乗込もうとする客だの、見送りに来た人達だのが、高い天井の下を彼方此方《あちこち》と歩いていた。山本さんもその間を歩き廻って、お新の来るのを待受けていた。次第に不安が増して来た。果して彼女は来るだろうか。お牧を離れて彼と二人ぎりの旅、それを心易く考えるだろうか。山本さんは安心しなかった。
そのうちに、幌《ほろ》を掛けてやって来た車が停車場前の石段の下で停った。彼女だ。
いかに気質を異にし、いかに心の持ち方を異にした人達で、この世は満たされているだろう。東京から稲毛《いなげ》あたりの海岸へ遊びに出掛けるのに、非常にオックウに考えている人すらある。そうかと思えば、東北の果から遠く朝鮮の方まで旅を続けて、内地の温泉めぐり位は物の数とも思わないような家族もある。山本さんの心配は、お新の快活な、心《しん》から出るような笑で破れた。彼女は例の薄い鼠色のコオトに、同じような色の洋傘《こうもり》を持って、待合室から改札口の方へ山本さんと一緒に歩いた。
「兄さん、シツコクしちゃ嫌《いや》ですよ――そのかわり、何処へでも御供しますから――」
と彼女の眼が言うように見えた。
どこまでもお新は活々としている。細長いプラットフォムを歩いて行くにしても、それから国府津《こうず》行の二等室の内へ自分等の席を取るにしても、どこかこう軽々とした、わざとらしくなく敏捷《びんしょう》なところが有った。
彼女はこれまで、旅行好な舅《しゅうと》や夫に随《つ》いて、大抵|他《ひと》の遊びに行くような場所へは行っていた。内地にある温泉地、海水浴場のさまなぞも、多く暗記《そらん》じていた。国府津小田原あたりは、めずらしくも無かった。好い連さえあれば、すこし遠く行く位は何でもなく思っている。
旅するものに取ってはこの上もない好い日和《ひより》だった。汽車が国府津の方へ進むにつれて、温暖《あたたか》い、心地《こころもち》の好い日光が室内に溢《あふ》れた。
山本さんは彼女と反対の側に腰掛けて行った。時々彼は何か捜すように、彼女の前髪だの、薄い藤色の手套《てぶくろ》を脱《と》った手だのを眺めて、どうかするとその眼でキッと彼女を見ることもある。しかし、そこには楽しい日光があるだけのことだった……その日光に、形の好い前髪や、白い、あらわな、女らしい手が映って見えるというだけのことだった……
何処まで行っても山本さんは極くありふれた話しか出来なかった。ややしばらくの間、二人とも黙って了って、窓の外の景色を眺めていることもある。復た話が始まる。日本に比ベると、彼地《むこう》では豚の肉が驚くほど廉《やす》いとか……鶏卵が一個何程で求められるとか……それを聞くと、お新は世間の内儀《おかみ》さんが笑うと同じように、楽しそうに笑った。
二人は国府津で下りた。そこまで行くと余程|温暖《あたたか》だった。停車場の周囲《まわり》にある建物の間から、二月の末でも葉の落ちないような、濃い、黒ずんだ蜜柑畠《みかんばたけ》が見られる。寒い方からやって来たお新は暖国らしい空気を楽しそうに呼吸した。彼女は山本さんと一緒に、明るい日あたりを眺めながら、停車場前の旅舎《やどや》の方へ歩いて行った。
優美なお新の風俗は人の眼を引き易《やす》かった。湯治場行の客らしい人達の中には二人の方を振返って、私語《ささや》き合っているものも有った。夫婦らしく見えるということが、山本さんの顔をすこし紅くさせた。
旅舎へ行って、熱海行の船を待っている間にも、女中がこんなことを言った。
「奥さん、船の切符を買わせましょうですか」
山本さんは笑って、「これは奥さんじゃないよ――妹だよ」
お新も笑った。この笑が反って女中を半信半疑にさせた。女中は、よくある客の戯れと思うかして、「御串談《ごじょうだん》ばかり」と眼で言わせて、帯の間から巾着《きんちゃく》を取出そうとするお新の様子をじろじろ眺めた。
山本さんはお新に金を費わせまいとした。彼女が出す前に、彼は上等の切符の代を女中の前に置いた。
「兄さん、それじゃ反《かえ》って困りますわ」
とお新が言った。
山本さんは聞入れなかった。汽車代から何からお新の分まで、一切彼の方で持った。金のことにかけては細《こまか》い山本さんが、この旅には出さなくとも済むようなところまで出して、一寸寄って昼飯を食った旅舎の茶代までうんと奮発した。汽船の出る時が来た。伊豆の港々へ寄って行く船だ。二人は旅舎の前の崖《がけ》を下りて、浪打際《なみうちぎわ》の方まで下りた。踏んで行く砂は日を受けて光るので、お新は手にした洋傘《こうもり》をひろげた。日に翳《かざ》した薄色の絹は彼女の頬のあたりに柔かな陰影《かげ》を作った。山本さんは又、旧いことまで思出したように、彼女と二人で歩くことを楽みにして歩いた。
明るい波濤《なみ》は可畏《おそろ》しい音をさせて、二人の眼前《めのまえ》へ来ては砕けた。白い泡を残して引いて行く砂の上の潮は見る間に乾いた。復た押寄せて来た浪に乗って、多勢の船頭は艀《はしけ》を出した。山本さんもお新も船頭の背中に負《おぶ》さって、艀の方へ移った。騒がしい浪の音の中で、船頭は互に呼んだり、叫んだりした。
本船に移ってからも、お新は愉快な、物数寄《ものずき》な、若々しい女の心を失わなかった。旅慣れた彼女は、ゼムだの、仁丹《じんたん》だのを取出して、山本さんに勧《すす》める位で、自分では船に酔う様子もなかった。時々彼女は白い絹《きぬ》※[#「※」は底本では「はばへん+白」、179−5]子《ハンケチ》で顔を拭《ふ》きながら、世慣れた調子で談《はな》したり笑ったりした。どうかするとお牧にでも話しかけると同じように話した。
こういう人の側に、山本さんは遠慮勝に腰掛けて、往時《むかし》お新や異母妹《いもうと》と一緒に菖蒲田の海岸を歩いた時の心地《こころもち》に返った。海は山本さんを九年若くした。あの頃は皆な何か面白いことが先の方に待っているような気のしたものだった。山本さんは今、丁度その気で、船の上から熱海の方の青い海を眺めた。
何卒《どうか》してお新を往時《むかし》の心地《こころもち》に返らせたいと思って、山本さんは熱海まで連れて行ったが、駄目だった。そこで今度は伊東の方へ誘った。
翌日の午後は、復た二人は伊東行の汽船の中に居た。
前の日にも勝《まさ》る好天気だ。二人は楽しい航海を続けることが出来た。海は一層濃く青く見えた。半島の南端では最早《もう》紅い椿《つばき》の花が咲くという程の陽気で、そよそよとした心地の好い南風が吹いて来た。透き徹るような空の彼方《かなた》には、大島も形を顕《あら》わした。
船房に閉籠《とじこも》っている乗客は少なかった。大概の人は甲板《かんぱん》の上に出て、春らしい光と熱とに耽《ふけ》り楽んだ。
しばらく山本さんはお新の側を離れて、煙筒の下だの、ぺンキ塗の窓の横だのを歩き廻った。引返してお新の居る方へ来て見ると、彼女は太い綱なぞの置いてあるところに倚凭《よりかか》って、船から陸《おか》の方を眺めていた。横顔だけすこし見える彼女の後姿は、房々とした髪に掩《おお》われた襟首《えりくび》のあたり
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング