から、肩の辺へかけて、女らしい身体の輪廓《りんかく》を見せた。横から見た前髪の形も好かった。彼女の側には、女同志身体を持たせ掛けて、船旅に疲れたらしい眼付をしているものもあった。日をうけながら是方《こちら》を見ている夫婦者もあった。
そのうちにお新は山本さんの腰掛けた方を振向いて、微笑《ほほえ》んで見せた。「実に好い天気ですね」とか、「伊豆の海は好う御座んすね」とかの意味を通わせた。何を見るともなく、彼女は若々しい眼付をした。こうして親切にしてくれる、南清《なんしん》の方までも行った経験の多い、年長《としうえ》な人と一緒に旅することを心から楽しそうにしていた。復た彼女は山本さんの傍に腰掛けて海を眺めた。
このお新の心やすだては、伊東へ着いて艀から陸へ上った時も変らなかった。伊勢|詣《まいり》の道連のように山本さんを頼りにして、温泉宿のある方へ軽く笑いながら随いて行った。
宿の二階へ上って見ると、二人はいくらか遠く来たことを感じた。
「奥さん、御|浴衣《ゆかた》は此方《こちら》に御座います」
という女中の言葉を、お新はさ程気にも掛けないという風で、その浴衣に着更《きか》えた後、独りで浴槽《ゆぶね》の方へ旅の疲労《つかれ》を忘れに行った。
やがてお新は戻って来た。部屋の隅《すみ》には鏡台も置いてあった。彼女はその前に坐って、濡れた髪を撫でつけた。
山本さんは最早湯から上って来ていた。大きな卓《つくえ》を真中にして、お新も瀟洒《さっぱり》とした浴衣のまま寛《くつろ》いだ。山本[#「さん」は底本でも脱落]が勧める巻煙草を、彼女は人差指と中指の間に挿《はさ》んで、旅に来たらしく吸った。
夕飯には、山本さんはすこしばかりビイルをやった。
「貴方も召上りますか」
と女中が差したコップをお新は受けて、甘そうに泡立つビイルを注がせた。「ホ――お新ちゃんはナカナカ話せる」と眼で言わせた山本さんの方は、反って顔が紅く成った。お新は電燈に映るコップの中の酒を前に置いて、その間には煙草も燻《ふか》した。山本さんが行って来た方の長江の船旅の話なぞは、彼女を楽ませた。山本さんと違って、そう遠慮ばかりしていなかった。
とは言え、お新は女らしさを失いはしなかった。それが反って家に居る時の若い内儀《おかみ》さんらしくも見えた。
「何をしても悪く思えない少婦《おんな》だ」
と山本さんは腹の中で繰返した。
その晩も、彼は独りで壁の方へ向いて、唯九年も前のことを夢みながら、寂しい眠に落ちて行った。
翌日も矢張同じような日を送って、四日目の朝には伊東から帰ることに成った。もし時が許すなら、山本さんは熱海、伊東ばかりでなく、もっと他の方へ、下田の港へ、それこそ大島までも、お新を連れ廻りたいと思ったが、そう自由には成らなかった。
伊東の宿で、山本さんは土地の話を聞いた。女を連れて石廊崎《いろうざき》の手前にある洞穴見物に出掛けたという男の話だ。船で見て廻るうちに、男は五百円|懐中《ふところ》に入れたまま、海へ落ちて死んだ。女だけ残った。海は深くて、その男の死骸《しがい》は揚らなかったとか。この話を聞いた時は、山本さんは他事《ひとごと》とも思えなかった。可恐《おそろ》しく成って、お新を連れて、国府津行の汽船の方へと急いだ。
船が伊東の海岸を離れる頃は、大島が幽《かす》かに見えた。その日は、往《ゆき》の時と違って、海上一面に水蒸気が多かった。水平線の彼方《かなた》は白く光った。そのうちに、ポッと浮いて見えたかと思う大島が掻消《かきけ》すように隠れた。あだかも金を費《つか》って身を悶《もだ》えながら帰って行く山本さんに対《むか》って、「船旅も御無事で」と告別《わかれ》の挨拶でもするかのように……
戻りには何処へも寄らなかった。唯、汽船が荷積の為に港々へ寄って行くのを待つばかりで。
一日乗ると船にも飽きた。飲食《のみくい》するより外に快楽《たのしみ》の無いような船員等は、行く先々で上陸する客を羨《うらや》んだ。港の岸に見知った顔でもあると、彼等は艀《はしけ》から声を掛けて、それから復た本船の方へ漕《こ》ぎ戻った。船は嫌いで無い方の山本さんにも、次第に単調な蒸気の音が耳につくように成った。乗客はいずれも船室の内に横に成って、寝られないまでも寝て行こうとした。お新もすこし疲れたらしく、白足袋|穿《は》いた足なぞを投出し、顔へは薄い絹《きぬ》※[#「※」は底本では「はばへん+白」、182−17]子《ハンケチ》をかけていた。
こんな風にして国府津へ近づいた。船旅を終る頃には、お新は熱海や伊東の話を持って、東京に居るお牧の方へ早く帰りたいという様子をした。
汽船は国府津へ着いた。乗客は争って艀に乗移った。山本さんも、お新も、陸を指《さ》して急いだ。
新橋行の二等室の内に腰掛けてからも、二人はあまり話す気が無かった。二語《ふたこと》三語《みこと》言っては復た黙って了った。窓から外を見ようとすらもしなかった。揺《ゆす》られ通し船に揺られて、復た汽車に揺られたので、山本さんは居眠りばかりして行った。どうかすると窓の玻璃《ガラス》へ頭を打ちつけた。それほど、身体を支《ささ》えることが出来なかった。新橋へ入ったのは未だ日の暮れない頃であった。何となく頭の上から押しつけられるような、ハッキリと物を考えられない心地《こころもち》で、山本さんは礼を言って車に乗って行くお新に別れた。
この四日の旅で、山本さんはつくづくそう思って来た。玉子色のリボンで髪を束ねていたような娘が、何時の間にか開き発達した胸を持って、その豊かな乳の張ったさまは着物の上からでも想像される程の人に成った。それに比べると、彼は無限に停滞している自身の生活を憐《あわれ》まずにいられなかった。口の悪い支那の方の友達ばかりでなく、ややもすると旧馴染《むかしなじみ》の「お新ちゃん」にすら「頭の禿げた坊ちゃん」なぞと笑われそうな気がして来た。神田の宿へ戻って長く忘れずにいるあの旧い接吻《キス》を考えた時は、山本さんは泣くことも出来ないほど悲しく成った。
それから二日ばかり経つと、お牧も無事に退院して、復た山本さんの方へ来た。
「どうでした、伊豆の旅は」とお牧は何度も同じことを兄に尋ねた。
「実に好かった……そりゃ、お前、近頃に無い好い旅だった……」
「私もお新ちゃんから、散々羨ましがらせられた……そのかわり、兄さんには歌舞伎座を奢《おご》って頂きますよ」
こういうお牧は、そう長くユックリしてもいられない人だった。
芝居見物の晩から、お新もお牧に随いて山本さんの旅舎《やどや》の方へ一緒に成った。いよいよ女連《おんなれん》が郷里《くに》へ向けて発《た》つという日には、山本さんは朝から静止《じっと》していなかった。支那土産の縮緬《ちりめん》の他に、東京で買った物まで添えて、隣座敷へ行って見ると、お新だけ居た。
お新は心から気の毒そうな顔付で、山本さんがそこへ出した物を受かねていた。
「あんなに諸方《ほうぼう》へ連れてって頂いたんですもの……」と彼女が言った。
「いえ、旅の記念として取っといて下さい。恥をかかせるものじゃないと言います……ホラ、私が支那へ行く前に、貴方がたが卒業して郷里へ帰ると言うんで、丁度今日みたような騒ぎをしましたッけ……お新ちゃんなぞは、あの時分のことは最早忘れて了ったんでしょう」
「兄さん、私だってそんなに忘れるもんですか」
「停車場《ステーション》へ送りに行ったら、多勢貴方がたの御友達も来ていて……後からやって来て、窓のところで泣いた人なぞも有りましたろう……」
「覚えていますよ」
「なんですか……もしあの時分、お嫁に来て下さいと言いましたら、貴方は私の許《ところ》へ来て下すったでしょうか……」
「兄さんの許《とこ》なら、誰だって行きますわ――」
お新は若々しい快活な声で、大きな丸髷が揺れるほど笑った。
* * *
上野まで妹達を見送って、復た引返して来た時は、山本さんは全く独りぽっちの自分を旅舎の二階に見出した。部屋の隅にある大きな支那鞄なぞが唯彼を待っているばかりだった。錯々《せっせ》と働いて余分に貯めて来た金は、何に費したともなく費された。
山本さんは窓のところへ行って、遠く町の空に浮ぶ煙のような雲を望んだ。長いこと彼はボンヤリ立っていた。
底本:「旧主人・芽生」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年2月15日発行
1970(昭和45)年2月15日2刷
入力:紅邪鬼
校正:しず
2000年2月28日公開
2000年11月28日修正
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