の旅舎の窓から美しい日光でも眺めるように。尤《もっと》もこれは山本さんの遠慮勝な性分から来たことだ。正直な話が、山本さんは是方《こちら》から愛した経験は有っても、未だ他《ひと》のように、真実《ほんとう》に愛されたということを知らなかった。こんな風にして一生は済んで了うのか。それを彼は考えた。最早《もう》山本さんも三十九だ。

 しかし山本さんには、唯一度、愛されたと思うことが有った。
 山本さんは独《ひと》りで手を揉《も》んだ。そして、すこし紅く成った。何故かというに九年も前の話だから……しかも十七ばかりに成る、妹のような娘から、唯《たった》一度の接吻《キス》を許されたのだから……
 その娘は腹違いの妹の学校友達で、お新と言って、色の黒い理窟《りくつ》好な異母妹《いもうと》とは大の仲好だった。仙台の方にあの娘達の入る学校も無いではないが、二人は東京へ出て、同じ寄宿舎から同じ学校へ通った。丁度山本さんは朝鮮から帰って来て、郷里の方で一夏暮したことが有った。暑中休暇で娘達も家に居る頃で、毎日のようにお新は異母妹の許《ところ》へ遊びに来た。妹達が「兄さん、兄さん」と言ってめずらしがれば、お新
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