旅舎《やどや》の二階へ戻って、山本さんは白い鞄《かばん》を開けて見た。読もうと思って彼地《むこう》から持って来た支那の小説が出て来た。名高い『紅楼夢』だ。嗅《か》ぎ慣れた臭《におい》はその唐本の中にもあった。
 一冊取出して、その中に書いてある宝玉という主人公のことなぞを考えながら読んでいるうちに、何時《いつ》の間にか彼の考えは自分の一生に移って行った。
 彼は阿武隈川《あぶくまがわ》の辺《ほとり》で送った自分の幼少《ちいさ》い時を考えた。学生時代を考えた。岩沼にある自分の生れた旧い家を考えた。田舎医者としては可成《かなり》大きく門戸を張っている父のことや、今度出て来るという妹と彼と二人だけ産んだ先《せん》の母のことや、それから多勢ある腹違いの弟、妹のことなどを考えた。
 二度目の母に対しては、どちらかと言えば彼は冷淡で、別にそう邪魔にも思わなければ、無論|難有《ありがた》くも思っていない。唯彼は妹と違って、腹違いの弟妹《きょうだい》がズンズン成長《しとな》って行くところを黙って視《み》てはいられなかった。
 妹は女学生時代から男性《おとこ》のような娘だった。我儘《わがまま》なかわ
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