《キス》を考えた時は、山本さんは泣くことも出来ないほど悲しく成った。
それから二日ばかり経つと、お牧も無事に退院して、復た山本さんの方へ来た。
「どうでした、伊豆の旅は」とお牧は何度も同じことを兄に尋ねた。
「実に好かった……そりゃ、お前、近頃に無い好い旅だった……」
「私もお新ちゃんから、散々羨ましがらせられた……そのかわり、兄さんには歌舞伎座を奢《おご》って頂きますよ」
こういうお牧は、そう長くユックリしてもいられない人だった。
芝居見物の晩から、お新もお牧に随いて山本さんの旅舎《やどや》の方へ一緒に成った。いよいよ女連《おんなれん》が郷里《くに》へ向けて発《た》つという日には、山本さんは朝から静止《じっと》していなかった。支那土産の縮緬《ちりめん》の他に、東京で買った物まで添えて、隣座敷へ行って見ると、お新だけ居た。
お新は心から気の毒そうな顔付で、山本さんがそこへ出した物を受かねていた。
「あんなに諸方《ほうぼう》へ連れてって頂いたんですもの……」と彼女が言った。
「いえ、旅の記念として取っといて下さい。恥をかかせるものじゃないと言います……ホラ、私が支那へ行く前に、貴
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