、自分のすぐ隣に居る人から始めるより外に仕方がないと思ったんです。そこで私はどうかして節ちゃんを生かしたいとも考えるように成りましたし、子供も自分で育てて見る気に成ったんです」
「どうも、貴様のは随分曲りくねって来ているんだなあ……」
 民助は笑い出した。やがて何か言い出そうとして、やや躊躇《ちゅうちょ》した後で、
「そこでだ――俺は今度、節ちゃんを台湾へ連れて行くつもりだ――どうだ、そっちの意見は」
 この兄の言葉こそ岸本の待受けていたものであった。
「あ、そうですか、連れてって下さいますか。是非それは私からもお願いしたいと思っていたんです」と岸本は力を入れて答えた。
 民助は眼を円《まる》くして弟の方を見た。遠い所へ節子を連れて行ってしまおうという自分の発議にどうして弟が嫌《いや》な顔もしないのか、とそれを意外に思うらしかった。
「や。そいつは難有《ありがた》い」と民助が言った。「貴様まで賛成してくれれば俺も安心だ。これでまあ今度出て来た俺の役目も果せるというものだ。世の中のことは淡泊にかぎるよ。俺はその主義サ。何事でも淡泊でなけりゃ不可《いけない》。あまりこだわり過ぎては不可。まあ何だわい、あれで節ちゃんも台湾へでも行ってだナ、すこし経《た》って見たら、馬鹿々々しいことをしたと自分でもそう思うかも知れない」
「いや、それはすこし違います。あの人の心持が沈着《おちつ》いては来ましょうが、馬鹿々々しいことをしたとは考えまいと思います」
「まあ何でも可いや。心持が沈着きさえすれば、それで可い――」
 秋らしい夜は何時《いつ》の間にか更《ふ》けて行った。「このくらいにして置いて、もう寝よう」という兄のために、岸本は女中の置いて行った夜具を延べたり、自分の床をその側に敷いたりして、兄弟|枕《まくら》を並べて寝た。少年時代の岸本が東京へ遊学するために一緒に徒歩で郷里の山々を越したのも、この兄だ。青年時代の彼がまた飄泊《ひょうはく》の旅から引返して来て、一旦《いったん》家出をした恩人の田辺の許へきまりの悪い坊主頭で一緒に詫《わび》を入れに行ったのも、この兄だ。種々様々なことが寝床に入ってからも岸本の胸に満ちて来た。節子はどうなる――そこへ考えが落ちて行くと、彼は兄の言った言葉を思って見てよく眠らなかった。

        百三十五

 翌朝、岸本は離座敷《はなれ》の廊下から庭へ降りて、独りで考えを纏《まと》めるために無花果《いちじく》の樹《き》の下へ行った。そこから自分の部屋へ引返して来て民助と一緒に朝の茶を飲みながら話した。学校へ通う子供等を送り出した頃から、民助の話は復《ま》た「懺悔《ざんげ》の一件」に繋《つな》がって起って来たが、でも前の晩に比べると余程打解けた調子で話すように成った。
「一体、どうしてああいうことを発表する気に成ったのかね」と民助は言って、やや声を低くして、「義雄の追求の仕方があまり苛《きび》しかったんだろうッて、俺は台湾の方に居てお秋(嫂《あによめ》の名)と二人でその噂《うわさ》をしていたよ――」
 民助は思い当ることでもあるように言った。それを聞いた岸本の胸には、節子と二人で暗い暗い月日を送った時のことが浮んで来た。
「それもあります」と岸本は答えた。「しかし、そればかりで投出したという訳じゃありません。まあ、いろいろな心の経験が重なり重なってああいうところへ出て行ったんです。その証拠には私は義雄さんのために尽すことを決して嫌《いや》だとは思っていません。そりゃどうかということがあれば、今でも自分の力に出来るだけのことは為《す》るつもりでいます。唯《ただ》私は貴方《あなた》がたと同じようにそれを為たいと思うんです。それだけです」
「そこでだ、節ちゃんは台湾へ連れて行くことに決ったしと――」
 と民助は言いかけながら、岸本の見ている前で座を起《た》って、帯を締め直した。この兄は短い上京の日取の間に自分の用事も達《た》さなければ成らずと言ったように坐り直して、やがて四方八方を円《まる》く治めて行きたいという口調で、更に言葉を継いで、
「俺もこうして出て来た以上は、このままにして置いて行く訳にはいかない。兄弟が仲違《なかたが》いをしているなんてことは不可《いけない》。どうしても貴様と義雄とは元通りにして置いて行かないと、俺の役目が済まん」
「それは少し困ります」と岸本は驚いて、兄の言葉を遮《さえぎ》った。「私の方からは勘当を受けようと言い出してあるくらいですし、当分はこのままにして置いて頂きたいと思います」
「それは不可――何処《どこ》かで、貴様と義雄とを逢わせて、俺が仲直りをさせて置いて行く――このままなんてことは、どうしても不可――」
 こう言って、民助が聞入れそうにもないので、岸本は義雄の方から来ている絶交状のことを思い出した。それを納《しま》って置いたところから取出して来た。
「義雄さんからこういうものが来ています」と岸本はその手紙を民助の前に置いた。「私の方から言えば、こういうものを頂戴《ちょうだい》して置くのも、自分から勘当を受けるのも、謹慎している意味に変りは無いようなものです。もし兄さんの役目が済まないという御考えでしたら、この手紙を持って行って頂きましょうか」
「よし。俺がそれを預かって行こう」
 と民助も折れて、大判の奉書に義雄自身の手で大きく書いてある手紙をひろげて見た。
「兄弟の縁を切るなんてことは容易なことじゃ有りません」と岸本は言った。「まあ他の親戚《しんせき》が聞いたら何と思うか知りませんが、私はそれほど悪い人間じゃありませんよ」
「白状するだけ、まだそれでも正直なところが有るかナ」と民助は笑った。「貴様もまあ、何か立派な仕事でもして、この不名誉を回復するがいい」
「立派な仕事なんて言いますけれど、あそこまで節ちゃんを連れて来たことが私には可成《かなり》な仕事でした――どうせ、人間の為ることです、そう大したことの出来よう筈《はず》もありません――まあ、節ちゃんのことは宜《よろ》しく御願い申します――私はどうにかこうにかここまで漕付《こぎつ》けて来たようなものなんです――」
「そりゃどうせ貴様等は結婚することは出来ないんだからなあ。心で思ってる分には、幾ら思っていたって差支《さしつかえ》はない――そりゃ差支はない」
 十年一日のようにある事業家を助けて三つ組の銀盃《ぎんぱい》と金子《きんす》とを贈られたという民助は、台湾の方で事務でも運ぶように節子の話を運んだ。
「そんなら俺はこれから谷中へ行って来る。二三日内に復《ま》たやって来る」
 と兄は言って、義雄の手紙を懐《ふところ》にして起ち上った。

        百三十六

 新規な住居《すまい》の方へ岸本が引移ろうとする前の日の午後に、復た民助が訪ねて来た。
「いよいよ引越しだね」
 と民助は弟の部屋を見廻しながら言った。
「今度の引越はこの通り簡単です。まあお話しなすって下さい」
 こう岸本も答えて、何もかも動きかけて来た中で、兄が齎《もたら》した報告を受けようとした。
「あれから谷中でよく話して見た。義雄が言うには、『どうして捨吉はああいう懺悔を断りなしに発表した、何故その前に俺に相談しないか』という話があった。義雄に相談すれば、止《と》められるにきまってるから――貴様が断りなしに決行したのは、そりゃ解《わか》ってる」
 民助は万事|呑込顔《のみこみがお》に言って見せて、やがて弟の顔を眺《なが》めながら言葉を継いだ。
「そこでだ。俺の考えと義雄の考えとは少し違う。俺の考えでは、貴様が心の中で節ちゃんのことを思ってる分には、幾ら思っていても関《かま》わんと。そんなことまで他人が関渉の出来るものでもない。ところが義雄の考えはそうじゃない。心の中で思っていても不可と言うんだ。貴様が節ちゃんのことをあきらめてしまうまでは、この手紙は受取らんと言うんだ。義雄の方でもそう言うし、貴様も当分謹慎していたいと言うものなら、俺も今度は見合せて帰る。まあ、この手紙はそっちへ納《しま》って置け」
 こう言った後で、民助は預かった手紙を懐から取出して、それを弟の前に置いた。
 遽《にわ》かに母屋《おもや》の方から飛んで来た子供にさまたげられて、一時二人の話は途切れた。岸本は一旦《いったん》出したものを引込ますということよりも、節子の前途のことを憂うる心が先に立った。
「私から兄さんにお願いして置きたいと思いますが――」と岸本が言った。「節ちゃんがこれから先の方針のことで、いずれ話の出るような折もありましょう。あの人の意志だけは重んじてやって下さい。それだけは当人の自由に任せてやって下さい」
「そりゃ言うまでもない」と民助は答えた。「人の意志を束縛するようなことは俺は嫌《きら》いだ。その点は節ちゃんの自由に任せるわい」
「無理なことをしますと、どういう悲劇が起らないともかぎりませんぜ――」
「まあ、台湾へでも連れて行って見たらばナ、どうまた気が変らんものでもあるまい。その時はその時サ」
「あの人の手は、もう少し治して置くと可《よ》かったんですが、嘉代さんの病気でそれなりに成っちまいました。台湾の方へ行って姉さんのお手伝いが十分に出来れば可いが――それを私は心配しています」
「ナニ、台湾の方は内地とは違って気候も熱いしナ、節ちゃんの手なぞも自然に好くなるだろうと俺は見てる」
「何方《どっち》にしても、あの人がほんとうに生きて出られるようにしてやりたい――それが私の希望なんです。生きて出られさえすれば、それが何よりです」
 岸本はまだその他に、節子の志望が宗教へ行くことにあるという話を民助の耳に入れて置こうとしたが、兄は笑って相手にしなかった。
「さあ、これで大体の事は決った――」と民助は言った。「もう一つ断って置くが、節ちゃんの方に心残りがあっても不可《いかん》からナ、貴様から餞別《せんべつ》を贈ることは見合せて貰いたい」
「承知しました。私の方では万事遠慮しましょう。台湾の方へあの人を連れて行って頂くのが何よりと思います」
「義雄も賛成、貴様も賛成だ。俺もまあこれで出て来た甲斐があった。節ちゃんも大悦びサ。もう俺に随《つ》いて行くつもりで、今日なぞは荷物をこしらえていたよ――」

        百三十七

 自己《おのれ》をそこへ投出してかかった岸本がこれまで親戚《しんせき》に答えて来たことは極く簡単であった。輝子は岸本が告白の当時に来て言った。「節ちゃんはもう叔父さんのところへお手伝いにはよこしませんから、そのつもりでいらしって下さい」――「どうぞ」義雄が次に手紙を送ってよこした。「貴様は義絶してしまうから、そう心得ろ」――「どうぞ」岸本はこの簡単な答を今また民助に対しても繰返すの外は無かった。「貴様は心で思っていろ、節子はもう遠いところへ連れて行ってしまうぞ」――「どうぞ」
 新しい住居で今一度|逢《あ》おうということを約して置いて、やがて民助はそこそこに谷中の方へ戻って行った。強い悲哀《かなしみ》が岸本の心に残った。
「父さん」
 と言って繁が庭伝いに屋外《そと》から帰って来た頃は、部屋の内はもう薄暗かった。
「父さんはこんな暗いところに何していたの」と繁が訊《き》いた。
「お引越しの支度《したく》をしていたサ」と岸本は答えた。
「僕は父さんが居ないのかと思った。こんなに暗くなるまで、燈火《あかり》も点《つ》けないで――」
 と言いながら繁は離座敷《はなれ》の電燈をひねって歩いて、鞄《かばん》や柳行李《やなぎごうり》などの取出してある二つの部屋を明るくした。
 下宿で暮して見る最終の晩が来た。夕飯後からは岸本は殊《こと》にいそがしい思いをした。子供等は新しい住居の方へ行くことを楽みにして、名残《なごり》を惜む宿の女中を相手に引越しの前らしい時を送っていた。そのごたごたした中で岸本は節子から電話の掛って来たことを知った。
「叔父さんでいらっしゃいますか……」
 母屋《おもや》の電話口で聞くこの声は、復《ま》た何時《いつ》聞くこと
前へ 次へ
全76ページ中74ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング