が宗教生活を送るというにあるならば、岸本は今まで毎月彼女を補助して来たようにこれから先も彼女の衣食に事を欠かさないようにして、どうかして彼女の望みを遂げさせたいと思った。

        百十一

 岸本が病院まで手紙を書いて持って行った心は到頭嫂には届かずじまいであったろうか。そうでもなかったことを岸本はあの嫂が亡くなった後になって知った。義雄兄が嫂の遺骨を携えて郷里の方へ出掛ける前に、兄の口からその話が出て、「叔父さんから手紙が来てる、あの手紙は人が見ると不可《いけない》、焼いてしまえ」と嫂は言い遺《のこ》したとか。して見ると矢張自分の心が届かないではなかった、とそう岸本は独りで自分を慰めた。
 岸本は義雄兄にも黙って、眼に見えない暗い牢屋を出るつもりであった。あの兄の心に背《そむ》いても節子を捨てまいと考えた時に、既にもう岸本は兄との別れ路《みち》に立たせられたことを感じたのであった。不思議な運命を考える度《たび》に、岸本はよく節子その人のことに思い当った。寂しい彼が生涯の途中に節子のような女のあらわれて来たということさえ彼には既に不思議であるばかりでなく、長いこと彼女の求めていたものを岸本に見出したという彼女の愛着の心もまた一つの不思議であった。もしも岸本が罪過の対象をもっと別の気質の人に見つけたとしたら、節子のように彼を憎むということも無いかわりに、節子のようにまた彼から離れがたく思うということも無いかも知れなかった。三年の旅の間も岸本を待ちつづけるようなことは節子として始めて見る女心だ。それが無ければ低気圧というものが再会した彼女に起っても来なかろうし、低気圧が彼女に起って来なければ或《あるい》は岸本の方で二度と彼女に近づくことも無かったかも知れない。節子ゆえに、岸本はあれほどの苦悩を得たのだ。節子ゆえに、岸本はあれほどの哀憐《あわれみ》を感じたのだ。罪過も、旅も、それからまた互に一生を託するような悲哀《かなしみ》も――一切は実に節子その人を対象にして起って来たことだ。岸本は、あの病人の個性というものをよくも見究《みきわ》めずに唯《ただ》病気のみを診断しようとする医者のような人達から一口に自分の行為《おこない》を審《さば》かれることを非常に残念に思った。
「どうせ人間の為《す》ることだ」
 と岸本はそこへ自分を投出すように言って見てはよく独りで嘆息した。
 しかし岸本は自分の懺悔が発表される日を待って、義雄兄|宛《あて》に手紙を書くつもりであった。自ら進んで兄の勘当をも受けよう、そして謹慎の意をあらわそう、そんなことを考えているところへ、思いがけない日に義雄兄が訪《たず》ねて来た。郷里の方で営んだという嫂の葬式を済ませ、やがて義雄は東京に帰って来ている頃であった。この兄は新規に起った節子の縁談を持って岸本の下宿へやって来た。

        百十二

「や。どうも大分好い話だ。それに就《つ》いて妙なことがここに持上った」
 と義雄は先《ま》ず節子の縁談のことを言出して、それから岸本の前に坐り直した。
 節子の縁談は当然起って来べき時に向いていた。これまでとてもそういう話がちょいちょい無いではなかったが、その度に節子が堅く拒んで来たばかりでなく、娘を自分の側から手放したくないという嫂は大抵の場合に節子の方に荷担して縁談を成立たせなかった。その嫂もこの世に居なかったし、早く妹の身を堅めさせたいと心配する輝子も附いていたし、のみならず岸本が蔭《かげ》になり日向《ひなた》になりして節子を生かそうとした骨折を知らない人から見たら、彼女は独りで置くには惜しいほど気力を回復した女であった。彼女は最早「幽霊」でもなければ「片輪」でもなかった。
「委《くわ》しいことを話して見なければ解らんが――」と義雄は例の手強く出る調子で言った。「こないだ布施《ふせ》が来て――布施と俺《おれ》とは大の仲好しだから、あの男が言うには、『君の許《ところ》には未だ嫁《かたづ》かない娘さんがあるようだが、他《よそ》へくれても可《い》いのか』と俺に訊《き》いた。『くれても可いどころじゃない』と俺が言うと、『よし、そんなら僕が仲人《なこうど》に立とう』と。そこで貰《もら》おう、くれようという話が始まった。何しろ、先方《さき》の家の財産は五万円から有るというんだ。おまけに布施の方では、一切|是方《こっち》のことは調べないと言うんだぜ。こんなウマい話は一寸《ちょっと》無いサ。節ちゃんももう好い歳《とし》だから、こんな好い貰い手のある時に俺の方では嫁けてしまいたいとそう思うんだが、彼女《あれ》が不承知だ。いろいろそこにはゴタゴタしたことがあって――俺の方で少し言い過ぎたようなこともあったが――何だか、昨夜《ゆうべ》なぞは節ちゃんの様子が変だ。遅くまで掛って荷物なぞを片付ける音がする。家でも出てしまうんじゃないかと、祖母さんは心配する。丁度また妙なことがあるもので、祖母さんが一ちゃんに買物に行ってお出《いで》と言って、五円札を一枚|長火鉢《ながひばち》の上に載せて置いたところが、その五円札が失《な》くなった。一ちゃんは知らないと言うし、祖母さんは確かに置いたと言うし、まさか節ちゃんが取るようなことはすまいが、しかし疑って見れば家を出るつもりで取らんとも言えない……」
「節ちゃんはそんな人じゃ有りません」と岸本は兄の言葉を遮《さえぎ》った。「あの人に限って、物を置いて行こうとも、取るような人じゃ有りません」
「それはまあどうでも可いとしたところで――」と義雄は言葉を継いだ。「何しろ、あの様子じゃ危くて仕様が無い。今朝は中根へ電話を掛けて、輝にも来て貰うことにした。輝でも来たら、どう節ちゃんも落付くものか知らんが、俺はそのままにしてお前の許《ところ》へやって来た。節ちゃんが何と言うかと思ったら――馬鹿な、この好い話を虚偽の結婚だなんて。虚偽の結婚とは何だ。誰だってそういう風にしてお嫁に行く。中根が輝を貰う時だって、先方《さき》で俺の娘を見たことも無い。輝の方だっても知らない。それでも結婚して見れば、あの通り幸福な家庭を造れる。まあ誰が見たって、あれなら申分の無い夫婦というものだサ。何処《どこ》の誰だって、女と生れて来て、今日《こんにち》お嫁に行かないようなものは無い。もしあれば、そんなものは片輪だ。俺の田舎《いなか》には何百軒という家があって、一人としてその家に結婚しないような女は居ない。一箇村の中で唯《たった》一人結婚しない女がある。お霜婆さんという女だけが一生独りで暮した。それだけだ。それ見ろ、結婚しないなんてことは人間の仲間に入れないことだ。一度はお嫁に行かんけりゃ成らん。一度行って、出て来たものなら、またそれでも可い。一度も行かんという法はないサ。例《たと》えばだ、嘉代の死んだに就《つ》いて諸方《ほうぼう》へ通知を出したろう、この葉書の裏に親戚総代として岸本捨吉と連名になっている田辺弘とあるのはこれはお節さんの旦那《だんな》さんの名ですかなんて、田舎の方へ行っても直ぐにそんなことを訊《き》かれる。世間というものはそういうものだサ」
「それで、兄さんはどうしようというんですか」と岸本が訊いた。
「だから明日でも節ちゃんをお前のところへ呼んでサ、お前からもよく彼女《あれ》に勧めて貰いたい」と義雄が言った。
「私からそれを勧めることは出来ません」
 岸本は簡単に答えた。それを聞いて義雄は更に言葉を継ごうとした。

        百十三

 義雄は弟の部屋を見廻して更に言いつづけた。「これでお前が細君も貰わずにいるなんてこともいくらか節ちゃんの方に響いているテ。遠心力のようなもので、遠廻しに引いている気味があるテ。節ちゃんもあれで一度はお嫁に行く気になったんだ。お前が仏蘭西《フランス》に行って留守の間に、一度は見合の写真までうつさしたものだサ。一体言うと、お前が旅から帰らない中に彼女《あれ》は嫁けてしまうつもりだった。何だか近頃の彼女の様子は、自分の産んだ子供のことでもしきりに聞きたがってるような風に見える。ホラ、例の一件で宜《よろ》しく世話になった看護婦があったろう。あの看護婦も今は病院の助手で、時々俺の家へも訪ねて来るサ。どうも見るのに、節ちゃんがあの看護婦から何か子供のことでも引出そうとしているらしい。下手《へた》にそんな話を聞かされては、それこそ大変だ。禁物。禁物。それで俺はあの看護婦に堅くその話を封じて置いたが。まあ、台湾の兄貴でもこういう時に東京に家を持ってると、あの兄貴の家へ節ちゃんを預けてしまう。俺としては、それが上分別だ。何にしても、あの様子は危くて仕様が無い。昨夜《ゆうべ》の節ちゃんと来たら、どんな間違いを起すか知れないような風サ。考えて見ると、世の中のことは実《み》もあり蓋《ふた》もありさネ。去年台湾の兄貴が出て来た時にサ、兄貴が莫迦《ばか》にお前のことを褒《ほ》めて、捨吉だけは無難だ、彼《あれ》だけはまあ兄弟中で一番安心だ、と言うじゃないか。その一番安心なお前が――これで兄貴も知らないようなことが有るんだからねえ。俺はその時|可笑《おか》しくなった。兄貴がそう言って知らずにいるところが可笑しくなった。しかし、俺は岸本の家ということを考える。祖先伝来の岸本の家の名誉ということを考える、中味はともあれだ、岸本捨吉で立てて置けば人も知らずに済むし、家の名前も汚さずに済むし、祖先に対しても面目を失わないというものだ。俺はそのくらい大きく考えてる。岸本の家の名誉に比べたら、節ちゃん一人の間違いぐらいは何でもないことだ。寧《むし》ろあんなものは間違いがあってくれれば可いぐらいに考えてる。そのくらい俺は岸本兄弟のためという事を重く視《み》てる」
 義雄の声は次第に高くなって、離座敷《はなれ》から母屋《おもや》の座敷の方へ響けて行った。その時まで岸本は首を垂《た》れて兄の言うことを聞いていたが、この兄にも黙って自分の秘密を捨てようとしていることに想い到った。いずれは兄の勘当を受けようとまで心を決めている矢先だ。彼は自ら進んで被告の位置に立とうとした。節子の縁談のことで訪ねて来た兄の話頭を自分の上に向けて貰おうとした。
「多分、兄《あに》さんは私が旅に出た時のこともよく御存じないだろうと思いますが――」と岸本が言出した。「国の方に子供でもなければ、二度と兄さんにお目に掛るつもりはありませんでした」
「や。その話が出れば言うが」と義雄は弟の方を強く見て、「先ずどうも、子供を頼んで置いて外国へ出掛けて行くというのに、留守居のものにも逢わずに行ってしまうなんてことは――常識のあるものには出来ないことだサ。お前は何だったろう、嘉代が田舎から出て来る前に、神戸の方へ子供を置いて行ってしまったろう。『捨さんは未だ神戸に居るそうだ』ッて、嘉代なぞは出て来て見て呆《あき》れてしまった」
「そりゃもう姉さんの腹を立たれたのは、御尤《ごもっと》もです」
「あの時のことを話せば、俺は未だ名古屋に居て、お前の不始末を知った。それから東京へ出て来て見た。嘉代が俺の袖《そで》を引いて、『どうも節ちゃんの様子がおかしいぞなし、あの娘《こ》に訊《き》いても泣いてばかりいるが、どうもこれは只《ただ》ではない、貴方《あなた》がまた下手《へた》なことを言出したらどういうことに成るか知れんぞなし』と彼女《あれ》が言うじゃないか。そこで俺が嘉代に、『解った、解った、貴様はここへ出るな、貴様は何事《なんに》も言うな』と。その時はもうお前、節ちゃんはこれだろう――」
「いや、その話を伺うまでもなく、私も既に一度は死を決したものです」
「そりゃお前のことだから、それくらいのことは有ったろう――そりゃ、有ったろう――」
「私も子供は控えておりますし、おめおめと国へは帰って来ましたが、しかしこの事のためには今日《こんにち》まで自分の力に出来るだけのことをしたつもりです」
「その点は申し分は無いサ。その点は完全無欠だ。お前も一度死を決したという以上は、その時にこの事は終りを告げたものじゃないか
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