キるよりも先《ま》ず自分の子供に隠さねば成らないような気がして、一切を皆の前に白状するというような行為《おこない》の好いかどうかに迷わずにはいられなかった。
 十月の第二の土曜に、節子は例のように谷中から通って来た。未だ岸本は節子と自分との関係をすっかり明かにしようというようなことを一つの考えとして自分の腹の中に蔵《しま》って置いて、彼女に話すことすら躊躇《ちゅうちょ》しているくらいであった。
「泉ちゃんが妙なことを訊いたぜ――」
 と岸本は話の序《ついで》に、泉太が彼の側へ来て尋ねたことだけを節子に言出した。
「尤《もっと》も、女中にそんなことを言われて、調戯《からか》われて来たらしいんだ」と復《ま》た彼は附けたした。
 さすがの節子もこの話を聞いた時は何時《いつ》になく彼女の顔色を変えた。
「きっとあの女中でしょうよ」
 と節子はそこに居ない人のことをそれとなく言って見て、無邪気な子供にそんな知恵をつけるとは余計なことをしたものだと言わぬばかりに眉《まゆ》をひそめた。
 しかし節子は直ぐに機嫌《きげん》を取り直した。彼女は岸本を見に来た楽しげな表情に返った。せっせと二人で蒔《ま》いたものを漸《ようや》く収穫《とりい》れられる時が来たのか、それほど二人の愛情が熟して来たのか、それともまた節子は多年の無気力から岸本は長い旅の疲労から漸く回復する時に届いたためであるのか、いずれとも言うことは出来なかったが、漸くその時になって初めて彼は荒《すさ》びたパッションから離れ行くことが出来た。深い秋の空気も何となく彼の身にしみて来た。

        百一

[#ここから2字下げ]
 "Your hands lie open in the long fresh grass,――
 The finger−points look through like rosy blooms:
 Your eyes smile peace. The pasture gleams and glooms
 'Neath billowing skies that scatter and amass.
 All round our nest, far as the eye can pass,
 Are golden kingcup−fields with silver edge
 Where the cow−parsley skirts the hawthorn−hedge.
 'Tis visible silence, still as the hour−glass.[#底本ではピリオド(.)なし]

 Deep in the sun−searched growths the dragon−fly
 Hangs like a blue thread loosened from the sky:――
 So this wing'd hour is dropt to us from above.
 Oh ! clasp we to our hearts, for deathless dower
 This close companioned inarticulate hour
 When twofold silence was the song of love."

右訳歌
「緑の草の中にしも腕《かひな》を君が擲《な》げやれば
 を指の尖《さき》のほの透《す》きてあからむ花と擬《まが》ふかな、
 さても微笑《ほほゑ》むやさ眼《まみ》や。散りては更に寄せ来《く》なる
 雲の波だつ空の下に照りては陰《かげ》る牧の原。
 二人|巣籠《すごも》るこのほとり眼路《めぢ》のかぎりはおしなべて
 黄金《こがね》の花の毛莨《きんぽうげ》、野末の線《すぢ》は白銀《しろがね》に、
 いぬ芹《ぜり》生《お》ふる山※[#「木+査」、第3水準1−85−84]子《さんざし》の垣根の端《はし》に連なりぬ。
 げに静けさの眼にも見えて、漏刻《ろうごく》の如《ごと》しめやかに。

 日影も忍ぶ草がくれ、蜻蛉《あきつ》はひとりみ空より
 解けにし藍《あゐ》の一すぢの糸かとばかりかゝりたる、
 『時』の翅《つばさ》もさながらに二人の上に休《やす》らひぬ。
 噫《ああ》、うち寄せむ、胸と胸、これや変らぬ珍宝《うづたから》、
 美《うま》し契のこまやかにたとしへもなきこの刻《きざみ》、
 二重《ふたへ》に合へる静けさぞ君と我との愛の歌」
[#ここで字下げ終わり]

 生命《いのち》の家。岸本の胸に浮ぶは曾《かつ》て中野の友人によって訳されたこの歌であった。彼は六畳の部屋の片隅に子供の着物なぞを入れた古い箪笥《たんす》の前に居て、そこに足を投出しながら、しばらく障子の開いたところからうち湿った秋の空を眺めていた。側には節子が針仕事する手を休めて、同じように箪笥に倚《よ》りかかり、同じように白足袋《しろたび》はいた足を延ばし、丁度並んだ男女《ふたり》の順礼のように二人して通り越して来た小さな歴史を思い出し顔であった。
 漸く岸本は自分の情熱の支配者であることが出来た。そのために煩《わずら》わされるということが無くなった。彼は中野の友人が訳した歌のこころを、愛しようとするものと愛されようとするものの合致から流れて来る音楽として想像して見た。深い「生」の舞踏として想像して見た。その舞踏は陶酔そのものとも言いたいほど乱れ狂う「スコッチッシ」のそれではなくて、寧ろ片手は互の指を組み合せ、片手は互の身体を軽く抱き、足並を揃えて極く静かに踊る「タンゴオ」の境地として想像して見た。どうやら彼はその音楽を見つけることの出来るような愛の世界に辿《たど》り着いた。学問や芸術と男女の愛とは果して一致するものだろうかというような疑いに苦しむ必要も漸く無くなって来た。どうかすると節子は彼の見ている前で、帯の間から櫛《くし》なぞを取出して、彼女の額に垂下《たれさが》る髪をときつけたり、束ねた髪のかたちを直したりするほどの親しみを見せる。彼はその濃い光沢《つや》のある髪を見た眼を直ぐ書籍の上に移すことも出来、その女らしいしなやかな表情を側《わき》に置いて自分の仕事を十分に思考することも出来るように成った。
 その日は、節子は実際に宗教生活に入って行く心支度《こころじたく》を始めねば成らないような話をして、彼女の前途の事なぞを語り暮した。節子が谷中をさして帰りかける頃には、もう寒いくらいの秋雨が来た。その翌日に成って彼女は岸本のところへ手紙を寄せて、帰って行く電車の間なぞが丁度雨の降るさかりであったから、ひどく濡《ぬ》れたりしたが、お蔭で大した困難もなく谷中の家に着いたと書いてよこした。それやこれやで手が大変に痛んで、御飯の時にも箸《はし》を持つことが出来ず、左の手に匙《さじ》を持つ始末であったが、油を塗って一晩休んだら今朝は余程好くなったと書いてよこした。彼女は又、身の辺《まわり》の澱《よど》んだ空気のことを書いて、その中に大きな声さえ出すことも出来ないように坐って、いやだいやだと思いながら今の境遇に引かれて行くのは、矢張自分が弱いからだというような嘆息をも書いてよこした。その手紙の奥には、涙ににじんだ左の数行の文字も書いてあった。「先刻《さっき》から何時間ここに坐っておりましょう。もう薄暗くなりました――わたしはもう何物《なんに》も要《い》りません、どうぞ最後の日まで愛させて下さい……」

        百二

 一度岸本の心に転機が萌《きざ》してからは、眼前《めのまえ》にある平和も、かりそめの安逸も、自分に取って体裁の好く都合の好いようなことも、結局それをどうすることも出来なかった。一方に彼を引留めようとするものがあればあるほど、彼が心に聞きつけた声はますますはっきりして来るばかりであった。十一月も末になる頃には、彼は大体の仕事の手筈《てはず》を定めるまでに成った。秋から取り掛っている旅行記の残部をも完成した上で、その他気に掛る仕事を片付けてしまった上で、それから書きにくい懺悔《ざんげ》に着手しようと思い立った。そうした著作は、よし書いて置いたにしたところで、自分の死後にでも発表すべきものではなかろうか――そんな考えが来て復《ま》た彼を引留めようとしないではなかったが。
 前の年に高輪の家の方で迎えたよりももっと寒い初冬がもうそろそろ愛宕下の下宿の庭先へやって来た。北東《きたひがし》に向いて朝のうちしか日の映《あた》らない離座敷《はなれ》は殊《こと》に寒かった。女中の案内なしに廊下の突《とっ》つきの部屋のところへ来て、障子の外から声を掛けるのは節子だ。丁度岸本は自分の思い立ったことを話すつもりで彼女を待受けている時であった。節子の癖で、子供の部屋の方から一寸岸本の居るところを覗《のぞ》くようにして、それからコートの紐《ひも》なぞを解いた。
 岸本の部屋の庭に面したところは全部障子であった。何となく遽《にわ》かに高くなったような板張の天井、残った蠅《はえ》の眼につく壁、いずれも初冬のおとずれを思わせないものは無かったが、殊に部屋の障子がそれを感じさせた。煤《すす》けて暗かったのを白く張替えてからは、急に明るくもなった。岸本はその初冬らしい親しみを増した障子の側で、懺悔を書こうと思うという話を節子に聞かせて、彼女の承諾を求めようとした。その日まで隠しに隠して来た二人の秘密を曝《さら》け出してしまおうということは、岸本の方で思ったほど節子を驚かしもしなかった。のみならず、彼女は例の率直な調子で、岸本の思い立ちに同意をあらわした。
「黙って置きさえすれば、もう知れずに済むことなんですけれど――」と節子は言った。「わたしにお娵《よめ》に来てくれなんて煩《うるさ》いことを言う人も無くなって、却《かえ》って好いかも知れません」
 岸本は節子の顔を眺めたまま、しばらく言葉も無かった。
「お前のように直ぐそういう風に持って行ってしまうから不可《いけない》――俺はそう眼前《めのまえ》のことばかりも考えてはいない」
 と岸本は言って見た。もし彼が旅から帰って来て節子を愛するという心を起さなかったら、あるいはここまで眼がさめるということも無いかも知れなかった。その心から、彼は言葉を継いで、
「俺は自分の子供が大きく成ったら読んで貰うつもりサ。下手《へた》に隠すまいと思って来たね。阿爺《おやじ》はこういう人間だったかと、ほんとうに自分の子供にも知って貰いたいと思って来たね……」

        百三

「お前の家でも、祖母さんはもう行火《あんか》かね」
 と岸本は節子に言いかけて、子供の部屋の方に温めて置いた土製の行火を見に行った。それを自分の部屋まで引いて来て、北向の障子の側に置いた。
「子供が学校から寒がって来るだろうと思って、今日は行火をこしらえといた」
 と岸本は言って見せて、寒い季節を感じ易《やす》い節子の身体をも温めさせた。
「節ちゃん、お前の悪い手を一つ見せとくれ。来年からは、お前の手を直すことも俺《おれ》の仕事の一つにしたいと思ってる」
 と岸本に言われて、節子は長いこと水いじりの出来ない手を行火の蒲団《ふとん》の上に置いて見せた。皮膚を侵す病は最早《もう》彼女の掌《てのひら》全体に渡っていて、神経の鋭くなった指のあたりからはどうかすると血が流れるとのことであった。
「ひどい手をしてるんだね」と岸本が言った。「こんなに悪くなるまで放擲《ほったらか》して置くなんて――まあ、良い医者に診《み》て貰《もら》うんだね」
 節子は自分でも掌を眺《なが》めていたが、やがて蒲団の中へ引込ましてしまった。来年の正月あたりから、病院にでも節子を通わせたいという岸本の話は、ひどく彼女を悦《よろこ》ばせた。それには彼は今までのように一週に一度の手伝いも一切りとし、用事でもある時に通って来て貰うことにして、手の療治を専心に心がけさせたいという話をして彼女を慰めようとした。
 その時節子は何か思い出したように、行火にあたりながら涙ぐんだ。
「よく私は吾家
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