ト来そうにも思われた。その先の方には今々《いまいま》どうすることも出来ないでいるものの本当の意味の解決が求められそうにも思われた。長いこと附纏《つきまと》われた暗い秘密を捨てようとする心は、未だそれを捨てもしてない前から、既にもうこうした翹望《ぎょうぼう》を起させた。その翹望は、悲しい暗い過去にばかりとかく拘泥《こだわ》り勝ちであった岸本の心を駆って、おのずと先の方に向わせるように成った。もし懺悔を書く日が来たら。それを想うと彼はもっとよく自分の心に聞いて見なければ成らなかった。
 今まで射《さ》したことの無い光がこんな風に岸本の精神《こころ》の内部《なか》へ射して来たばかりでなく、帰国の日以来とかく疲労し易《やす》かった彼の身体までが漸くその頃に成って回復の時に向って来た。寒暑、乾湿、風雨、霜雪、日光の度を異にした遠い異郷の方から帰って来て、本当に自分の身体に成れたと思うまでには彼は一年の余も要《かか》った。
 新しい秋の空気は既に部屋の内まで通って来ていた。彼は漸く故国に帰り着くことが出来たかのような心でもって、葉と葉の奥に日の映《あた》った庭の見える縁先へ行った。熱い、寂しい感じのする百日紅《さるすべり》の花なぞもさかりに咲く時であった。その花の色までが妙に彼の眼にしみた。そして自分の国の方のものらしい親しみを感じさせた。

        九十四

 九月の三日は節子に取って忘れられない日であった。彼女は自分の子供のために毎年その誕生日を記念することを忘れなかった。
「復《ま》た風引いて四日ばかり休んでおります。明日はお目にかかれませんが、明後日《あさって》はきっとお伺いします。九月の三日ですものね。無理にもあがれないことはありませんけれど、一日だけ我慢しましょうね。では明後日ね」
 こうした手紙が月のはじめに節子から届いた。最早《もはや》彼女はこれ程心易い調子で岸本に宛《あ》てて書くように成った。
「では明後日《あさって》ね」
 と岸本は繰返して見て、まるで吃者《どもり》のようにしか物の言えなかった人が、可哀そうなほど日蔭者の自制と遠慮とに慣らされて来たような人が、どうかして早く自由に思うように話したいと言っていた人が、その自然な調子の出るところまで彼女の唇《くちびる》も解けて来たかと思った。
 約束の日に岸本は節子を迎えた。もし懺悔を書くとしたら、その前に節子だけには話して、彼女の承諾を求めたいと思ったが、何事も未だ彼は話さずに置いた。
 節子は露領の方から近く帰国するという報知《しらせ》のあった姉夫婦の噂《うわさ》なぞをした後で、
「どうしてそんなに人の顔を見ていらっしゃるんです」
 と岸本に訊《き》いた。
 二間続いた離座敷《はなれ》には、同じ部屋の内に書斎もあれば、客間もあれば、茶の間もあった。岸本は湯をたやさずにある火鉢《ひばち》の方へ節子を誘って、自分の好きな熱い茶を彼女に勧め、自分でも飲みながら、本当にその畳の上に親めるような心になった。
「今日はお前が来ると言うんで、久しぶりで髭《ひげ》を剃《そ》って待っていた――髭でも延びてる時はそうは思わないが、これを剃ってサッパリすると、自分ながらそう思うね。こうして独《ひと》りで置くのは惜しいものだと思うね」
 こうした岸本の冗談が節子を笑わせた。
 岸本はその心で節子を見た。何時の間にか彼女の生命《いのち》も、あだかも香気を放つ果実《くだもの》のように熟して来ていた。彼はその見違えるほど生々とした表情を彼女の外貌《がいぼう》のどの部分にも看《み》て取ることが出来た。彼女の濃くなった髪の毛にも、彼女の冴《さ》え冴《ざ》えとした眸《ひとみ》にも。あの帰国当時の義雄兄の言草ではないが、「片輪の一人ぐらい」とまで周囲のものから見られるほど衰え果てた人を、ともかくもそこまで生かすことが出来たその人の知らない骨折を思うと、彼にはいくらか自分で慰めるに足るような気がした。
「それはそうと、吾儕《われわれ》の小さな歴史も始まってから何年に成るだろう」
「今年で六年越しじゃありませんか」
「そうか――もう六年越しかねえ」
 岸本は節子と二人でこんな言葉をかわした。その時、彼は節子に訊いて見た。
「節ちゃん、俺は疾《と》うからお前に訊いて見たいと思っていたんだが――お前の『創作』というのは一体何時頃から始まったんだろう。お前の方が俺《おれ》よりも早いことだけは分ってる」
「いずれ手紙にしてお目に掛けますよ」
 と節子は伏目勝ちに答えた。
 その日は岸本は女の手を煩わしたいと思う細々《こまごま》とした仕事を一日節子に手伝って貰《もら》った。近くの町で彼は眼の悪い義雄兄のために手ごろな杖《つえ》を見立てて買って来て置いた。その杖を持たせて節子を谷中《やなか》の方へ帰した。

        九十五

「先日お話のあったことを書いてお目にかけます。一番最初わたしの上った頃の叔父さんはほんとにこわい方でしたよ。だって、毎日々々あんなに黙って、こわい顔ばかりしていらしったんですもの。それに泉ちゃん達のことと言えば、前に不可《いけない》と仰《おっしゃ》ったことでも、後でしてやればいいじゃないかって、叱《しか》られてしまうんですもの。どうして可《い》いか解りませんでしたよ。ですからね、その頃はただ気遣《きづか》いな、こわい方だったけれども、肩なんか揉《も》んであげるように成ってから、だんだんこわくなくなりましたよ。そればかりでなく、今までわたしなんかもう本当に誰からもやさしくなんてして頂いたことは有りませんでしたから。家でも、根岸でも、学校でもね。わたしの周囲《まわり》にあったものは、そうですね、こう威圧というようなものばかりだったんですもの。ですから今とはとても比べものには成りませんけれど、あの頃でさえ他のどんな人よりやさしくして下さるのが嬉しかったの。今まで男の人なんかは何だか気味悪いようにばかり思って、知ろうともしませんでしたけれども、何だか少しずつ分って来るような気がしましたよ。叔父さんもわたしが最初上った頃から見ると、じりじりと疲れていらしったようでしたね。御心配や何やかやで、よく横に成っていらっしたじゃ有りませんか。わたしはどうかして進《あ》げたいと思っても、どうすることも出来ませんでしたの。それ以前でもこれが進んで行ったらどうなるなどということは考えたこともありませんでしたから、ほんとに一頃《ひところ》は何もかも滅茶苦茶でしたよ。どうかすると叔父さんがにくらしくてにくらしくてね。三日ばかりそんな日の続いたことが有りました。けれど急に種々《いろいろ》なものが、今まで知らなかったものが見えて来ました。それからは一方では憎みながら、一方では矢張《やっぱり》囚われていたんですね。時によると憎みが余計に頭を持上げたり、時にはその反対のこともありました。それからあの母になったことを知った頃からは、両方とも余計に深いものに成って行ったんですね。遠い旅にお出掛になるなんてことをうかがった時は、不思議な位に思いましたよ。その時はもう離れられないものに成っていましたから。まあどうしてそんな心持に成れただろうと思いましてね。あの晩のこと覚えていらしって――ほら、元園町のお友達からお使で、迎えの俥《くるま》の来たことがありましたろう。会があったりして随分遅く一時か二時頃に帰っていらしって、好い事があるから話して聞かせるなんて仰って、わたしがまいりましたら、可哀そうな娘だなあッて、堅く抱きしめて大きな溜息《ためいき》していらしったの。わたしも何だかよく分らなかったんですけれど、悲しくなって泣いちまいましたの。今でもあの晩のことを時々思い出しますよ。あの次の日かに旅のお話がありましたっけね。彼地《あちら》へお立ちになる頃は、憎みも余程少くはなっていましたが、未だそれでも残っておりました。神戸をさして行っておしまいになってからは、それが皆思いやりというようなものに変ってしまいましたのよ。そして長い間にだんだん叔父さんに見つけたものばかりが、他の人の持っていないものだと思うようなものばかりが残りましたのよ。それからはもうほんとうに好きになってしまいましたの。
 ――まだ書かなくちゃ成りませんけれど、お父さんがいつも直《す》ぐそこの御座敷にばかりいらっしゃるんですもの。気が気じゃありません。次郎ちゃんも来て、悪戯《いたずら》ばかりして書けませんから、復《また》この次にね」
 節子は初めてこんな精《くわ》しい消息を泄《も》らしてよこした。これを読むと岸本の胸にはいろいろ思い当ることばかりであった。節子の所謂《いわゆる》「創作」がこんなに早く彼女の上に起って来たことは、幸か、不幸かは、岸本にも言えなかったが、すくなくも彼女が女の一生のうちの最も柔かく最も感じ易い時代を自分と共に過して来たことは今日までの二人の小さな歴史でよく想像することが出来た。
 岸本の眼にある節子は、未《ま》だ落ちつくところに落ちついていなかった。彼女がこころざしていることを知るものは岸本一人の外に無かった。彼女の青春も既に過ぎ去ろうとしている。そしてその責《せめ》は全く彼にある。彼は何物を犠牲にしても、この人のために真《まこと》の進路を開き与えないのは嘘だと思った。

        九十六

 眼前にある平和な光景は寧《むし》ろ岸本の心を引留めることばかりであった。二人の子供は最早すっかり今の生活に慣れて、父と共に楽しい日を送りつつある。
「泉ちゃん、じゃんけんしようよ――」
 などと言って兄と共に遊ぼうとする繁には母の記憶が無いばかりでなく、兄の泉太ですら亡《な》くなった母さんをよく覚えていないと言う程で、二人の子供は唯々《ただただ》父を便《たよ》りにし、父と共に住むことを何よりの幸福としている。
「じゃん、けん、ぽん」
「ぱあと出て」
「ぱあと出て」
「ぐっと出て」
「ぱあと出て」
「ちょっきはどうだい」
 こんな二人の子供の遊び声がよく廊下のところで起って、少年時代の昔へと岸本の心を誘うのであった。
 この子供の許《もと》へ毎週に一度は節子が通って来て、彼等のために着物や袴《はかま》の綻《ほころ》びを縫《ぬ》ったり、父の手で出来ない世話をしたりしてくれる。子供もまた谷中の方まで二人でよく遊びに行くように成って、祖母《おばあ》さんや、伯父《おじ》さんや、伯母《おば》さんや、それから一郎と次郎とを見ることを楽みにしている。岸本さえ今まで通りにしていれば、何もこの子供等の幼い心を曇らせずに済む。そればかりではない。岸本の動き方一つではその影響は彼の身に近い一切の人に及んで行きそうに見えた。そしてその影響からもう一度彼の方に返って来るものは、実に自分の心に辛《つら》いものばかりのように見えた。
 最近に、岸本はある雑誌を受取った。その中に細君を失って再婚したある宗教家のことが出ていた。その再婚した宗教家と、独身の岸本との比較が出ていた。岸本は一度もその宗教家には逢《あ》って見たことも無かったが、その人の失った細君は昔彼が教えたことのある生徒であった。亡くなった友人の青木のことなどと一緒によく彼の記憶に上る勝子とは同姓で、たしか同郷で、同じ麹町《こうじまち》の学校に生徒として来ていた人であった。そんな関係から万更知らない人のことでも無いような気がしてその雑誌を読んで見ると、亡くなった細君の身としたら再婚する宗教家よりも、下宿に子供を養っている岸本の方がどんなにか頼もしいという意味のことが書いてあった。定めし岸本の細君は草葉の蔭で自分の夫に感謝しているだろうという意味のことも書いてあった。思わず岸本は独りで顔を紅《あか》めた。自分の現在の位置の偽りであることは、そんな雑誌を読んで見るにつけても、寧《むし》ろ人知れず彼の心を引留めるようにした。
 岸本は迷いに迷った。そればかりのことに現在の生活を更《あらた》められないのかという声と、そればかりのことに現在の平和を破壊するのかという声と、その二つの声が彼の心の内部《なか》で戦った。
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