ゥった。
 やがて岸本が節子の贈物を首に掛けた時は、自分ながら妙に改まった心持に成った。髪のある僧侶として自分を考えるには、彼の胸に躍《おど》る血潮はあまりに生々《なまなま》しく、彼の歩いて来た道はあまりに罪が深かった。こうした珠数でも胸の上に懸《か》けて幻の栖所《すみか》のように今の生活を思うような心と、夜も寐《ね》られぬほど血の涌《わ》くような心とが、彼には殆ど同時にあった。

        九十

 離座敷《はなれ》から母屋《おもや》の方へ通う廊下つづきには庭の見透《みとお》しの好いところがあった。しばらく子供等はその涼しい風の来るところに集まって遊んでいたが、やがて三人とも揃《そろ》って愛宕山の方へ出掛けて行った。庭にある大きな青桐《あおぎり》の方から聞えて来る蝉《せみ》の鳴声は、遽《にわか》に子供の部屋をひっそりとさせた。
 岸本は泉太の机の上を片付けて、そこへ節子を誘った。その机の上に自分で書溜《かきた》めて置いたものを載せて見せた。彼が節子に読んで見て貰おうと思ったのは手紙がわりに彼女に宛てて自分の胸に浮んで来たことを順序もなく書きつけたものだ。いそがしいのにこんなことを書いて僅《わずか》に自ら慰めるとか、滝のように汗を流して働いた後で復《ま》た書きつけるとか、そんな言葉を添えたものもある。一枚の紙に書いたのもある。僅な紙の片《きれ》の端に書いたのもある。それを集めて節子の前に置いて見ると可成な嵩《かさ》があった。どうかすると自分ながら驚くばかり放肆《ほしいまま》な想像――そういうものが抑えに抑えようとしている精神《こころ》の力を破って紙の上に迸《ほとばし》って出て来ていた。その中には子供を海水浴へ連れて行こうと思う序《ついで》に、節子のためにも町へ出て女の水着を見立てに行ったことや、一緒に潮水に浸る楽みを想像したことや、海の荒れていることを聞いて折角節子を驚かすつもりでひそかに立てて置いた計画も見合せたことを書きつけたところも有った。子供と一緒に近くにある禅宗の寺院《おてら》を訪ねた時、幽寂《しずか》な庭に添うた廻廊で節子を思い出したことを書きつけたところもあった。その中にはまた、過ぐる冬の磯部の旅以来の自分の心の戦いから、節子に知って置いて貰いたいと思う種々様々な心の消息を書きつけたところもあった。
 節子は黙って身動きもせずに読み耽《ふけ》っていた。あだかも彼女の神経のすべてが紙の上に吸われて行ったかのように。時とすると岸本は彼女の背後《うしろ》に立って、長い生《は》えさがりの毛や、女らしい特色のある耳などの眼につく彼女の横顔を眺めながら、自分の読ませたいと思うもののどの部分が彼女に読まれているかを覗《のぞ》きに行った。
「いそがしいいそがしいと思いながら矢張お前へ宛てて書きたい。いそがしいいそがしいと思いながら矢張お前のことを思い続ける。自分は我慢して月に二度しかお前を見ないことにしたが、今ではそれを後悔している。お前を見ない二週間は全く待遠しい。昨夜《ゆうべ》は非常に暑苦しかった。おちおち眠られないほどお前を思いつづけた。あの高輪の縁側で、萩の葉の暗い庭に向ったところで、二人あることを楽みながら夜遅くまで互に蚊に喰《く》われて起きていた短夜《みじかよ》の空が、復《ま》た自分を憂鬱《ゆううつ》にする。こうした夏の夜はお前を待つ心で満たされる。自分はもう一晩でもお前を思わずには眠られない……一昨日《おととい》の晩はお前が二度目の母になった夢を見て、お前のお父《とっ》さんから乱打されたと思ったら眼が覚《さ》めた。悲痛な夢の涙の残りがお前の縫って贈ってくれた天鵞絨《びろうど》の枕《まくら》を濡《ぬ》らした……」
 こうしたことを書きつけたところも有った。
「どうだね、すっかり読んで見たかね」
 と言いながら彼が節子の背後《うしろ》に立って見た時は、節子は眼に一ぱい涙をためて仰ぐように彼女の顔を向けた。彼は節子の涙が歓びの涙であるのを知った。その涙が彼女の成熟した頬《ほお》を伝って流れるのを見た。
 その日の午後に、岸本は節子の前に行って立って見た。彼は節子の今の境遇を思いやる心から、彼女に訊《き》いて見た。
「節ちゃん、お前は一人でそうしていて、ほんとに寂しかないのかい」
「一人じゃ無いじゃありませんか――二人じゃ有りませんか」
 この節子の答えは岸本の耳に深く響いた。その時、彼は黒い珠数の掛った自分の胸に思わず彼女を押当てた。
「ああ――可愛い」
 深い溜息《ためいき》でも吐《つ》くように、しかも極《きわ》めて熱心に彼はそれを言った。

        九十一

 二鉢の朝顔を残して置いて節子姉弟はその日の夕方に谷中へ帰って行った。翌朝も、翌々朝も、節子の置いて行った朝顔が岸本の部屋の縁先で咲いた。
「私ね、嬉しくて嬉しくて仕方がないの。だって――」
 こんな隔ての無い調子で書き出してある節子の手紙が八月の初に岸本の手に届いた。彼女は家へ帰ってから書きかけて置いたものだと言って、短い、しかし心を籠《こ》めた便《たよ》りを送ってよこした。先日伺った日の前の晩は自分も何度となく眼をさましてよく眠られなかったと書いてよこした。一週間|経《た》って、もう一週間と思うとがっかりしてしまう、一週間でも随分長い思いがすると書いてよこした。彼女は早くその手紙を出すことの出来なかった身の辺《まわり》の種々《いろいろ》な消息を書いた末に「早くお目に掛りとうございます」ともしてよこした。到頭岸本は八月の半ば過ぎ頃までに纏《まと》めたいと思った旅行記の続稿を予定の三分一も書くことが出来なかった。「年を取れば取ったで複雑な恋愛の境地があろうとは僕も考える――しかし、恋なんてことは、もう二度と僕には来そうもない」とは曾《かつ》て彼が異郷の徒然《つれづれ》を慰めようとして画家の岡なぞに語った述懐であった。実際そう思って歩いて来たこの世の旅の途中に、仕事もろくに手につかず夜もろくに眠られないような恐ろしい情熱が彼を待受けようとは。彼は自分の内部《なか》から押出して来たこのパッションの激浪をどうなりともして衝《つ》き切らねば成らないような心をもって、その夏の「峠」を越した。
 涼しい雨がやって来て離座敷《はなれ》の縁先を濡《ぬら》すような日もあった。雨はよく深い廂《ひさし》の下まで降り込んだ。母屋《おもや》へ通う廊下のところなぞは上草履《うわぞうり》でも穿《は》かなければ歩かれなかった。そういう日には特に下宿住居の心持や、乾燥した巴里《パリ》の方の町の空でこの雨の恋しかったことなどが岸本の胸に浮んで来て、静かに自己を省みる心に返らせた。彼は到底このままの節子との関係を長く持ち続けて行くことの出来ないのを思った。もっと二人の出発点に遡《さかのぼ》って、根本から考え直して見ねば成らない時が来たように思った。何故というに、彼が節子と二人で出て来たところは、本当に彼女と一緒に成ることも出来なければ、そうかと言って彼女から離れていることも出来ないような位置にあったからで。節子を愛すれば愛するほど彼はその感じを深くした。彼女と一緒に成るようなことは到底彼女には望めないことであった。そんなら全く互に孤独を厳守して精神上の友であるのに甘んずることが出来るかというに、それも彼の情熱が許さなかった。どうかすると彼は、少しでも好い方へ節子を導きつつあるのか、それとも二人して堕落の路を踏みつつあるのか、その差別も言えないように自分で自分を疑うことすらあった。彼は節子に対する哀憐《あわれみ》を自分の行けるところまで持って行こうとして、兄に隠し、嫂《あによめ》に隠し、祖母さんに隠し、久米に隠し、自分の子供にまで隠し、まるで谷底を潜《くぐ》る音のしない水のように忍び足に歩き続けて来た。この二人の路の行《ゆ》き塞《つま》ることは見|易《やす》い道理であったかも知れない。

        九十二

 最早《もはや》岸本は今までのように窮屈な、遠慮勝ちな、気兼ねに気兼ねをして人を憚《はばか》りつづけて来たような囚《とら》われの身から離れて、もっと広い自由な世界へ行かずにはいられないようなところまで動いた。
 四年の間自己の秘密を隠しに隠そうとした岸本の心にも、漸《ようや》くその時に成ってある転機が萌《きざ》して来た。暗い暗い心を抱《いだ》いて遠く流浪の旅に上った日以来、いくらかでも彼が明るいところへ出て来たと思ったことは、二度あった。一度は、異郷の旅を行き尽して再び故国へと彼の心の向うように成った時だ。彼は赤い着物でも脱ぎ捨てるようにして、あの着古した旅の服を巴里《パリ》の客舎に脱ぎ捨てて来た。当時の彼の心では、どうやら自分の一生の失敗も葬り得られたつもりであった。国に帰ることは、彼には赦《ゆる》されることであった。五十五日の船旅の後で、彼は夢寐《むび》にも忘れることの出来ない土を踏んだ。そうして自分の子供の側まで帰って来て見ると、未だ未だ彼は眼に見えない牢屋《ろうや》の中に自分を見つけた。彼は不幸な犠牲者が自分と同じ牢屋の中にあるのを発見した。彼が笑ったことの無い節子の心からの笑顔を見た日は、すくなくも明るいところへ出て来たと思った二度目の時であった。けれども彼の言うこと為《な》すこと考えることは過去の行為に束縛せられて、何時《いつ》でも最後には暗い秘密に行って衝《つ》き当った。彼は過去の罪過を償おうが為に苦しんでも、自分の虚偽を取除こうが為には今まで何事も努めなかったことに気がついた。暗い秘密を隠そう隠そうとしたことは自分のためばかりでなく、一つは節子のためであると考えたのも、それは互に心を許さない以前に言えることであって、今となっては反《かえ》ってそれを隠さないことが彼女のためにも真《まこと》の進路を開き与えることだと考えるように成った。
「一切を皆の前に白状したら」
 岸本は今まで聞いたことの無い声を自分の耳の底で聞きつけた。もし嘘《うそ》でかためた自分の生活を根から覆《くつがえ》し、暗いところにある自分の苦しい心を明るみへ持出して、好い事も悪い事も何もかも公衆の前に白状して、これが自分だ、捨吉だ、と言うことが出来たなら。
 そこまで考え続けて行った時、岸本はこの心の声を打消したいように思った。
「嘘でかためたにしろ、何にしろ、あれほど義雄さんに強《し》いるようにして頼んで置いて、今更そんなことが出来るものだろうか」
 そう思うと彼は躊躇《ちゅうちょ》しない訳にいかなかった。自己の破壊にも等しい懺悔《ざんげ》――彼は懺悔という言葉の意味が果してこういう場合に宛嵌《あては》まるかどうかとは思ったが――その結果が自分に及ぼす影響の恐ろしさを思うと、猶更《なおさら》躊躇しない訳にいかなかった。それの出来る時が、眼に見えない牢屋から本当に出られる時だろう、心から青空の見られるような気のする時だろう、待ち受けた夜明けの来る時だろう、そうは思っても、そこまで行くだけの精神《こころ》の勇気を起そうとするだけでも容易では無かった。

        九十三

 未だ岸本は一切をそこへ曝《さら》け出してしまう程の決心もつきかねていたが、自分の苦しい出発点に遡って根本から考え直して掛ろうとするには、どうしてもその心の声を否《いな》むことが出来なかった。それをするには、いろいろな人が懺悔を書いた例に倣《なら》って、自分も愚しい著作の形でそれを世間に公《おおやけ》にしようと考えるように成った。「あの事」を書いたら。そんなことは以前の彼には考えられもしなかったのみか、なるべく「あの事」には触れまいとして節子から来た手紙は焼捨てるとか引裂いて捨てるとかした以前の彼の眼から見たら、まるで狂気の沙汰《さた》であった。こんなところへ岸本を導いたものは節子に対する深い愛情だ。
 懺悔へ。岸本はどうしてこんな心に成れたろうと時々自分ながらびっくりすることも有った。彼の心がその方に向おうとしただけでも、何となく彼の歩いて行く路《みち》には新しい未来が感じられて来た。種々な事が先の方に起っ
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