采《かっさい》を想像して見て悲しく思った。
昼と夜とは長い瞬間のように思われるように成って行った。そして岸本の神経は姪に負わせ又自分でも負った深傷《ふかで》に向って注ぎ集るように成って行った。
岸本は硝子戸《ガラスど》に近く行った。往来の方へ向いた二階の欄《てすり》のところから狭い町を眺めた。白い障子のはまった幾つかの窓が向い側の町家の階上《うえ》にも階下《した》にもあった。その窓々には、岸本の家で部屋の壁を塗りかえてさえ、「お嫁さんでもお迎えに成るんですか」と噂《うわさ》するような近所の人達が住んでいた。いかなる町内の秘密をも聞き泄《もら》すまいとしているようなある商家のかみさんは大きな風呂敷包を背負って、買出しの帰りらしく町を通った。
十七
「岸本様――只今《ただいま》ここに参り居り候。久しぶりにて御話承りたく候。御都合よろしく候わば、この俥《くるま》にて御出《おいで》を御待ち申上げ候」
岸本は迎えの俥と一緒に、この友人の手紙を受取った。
「節ちゃん、叔父さんの着物を出しとくれ。一寸友達の顔を見に行って来る」
こう岸本は節子に言って、そこそこに外出する支度《したく》した。箪笥《たんす》から着物を取出して貰うというだけでも、岸本は心に責めらるるような親しみと、罪の深い哀《あわれ》さとを節子に感ずるように成った。何となく彼女に起りつつある変化、それを押えよう押えようとしているらしい彼女の様子は、重い力で岸本の心を圧した。節子は黙し勝ちに、叔父のために白足袋《しろたび》までも用意した。
まだ松の内であった。その正月にかぎって親戚への年始廻りにも出掛けずに引籠《ひきこも》っていた岸本は久しぶりで自分の家を離れる思をした。彼は怪しく胸騒ぎのするような心持をもって、門並《かどなみ》に立ててある青い竹の葉の枯れ萎《しお》れたのが風に鳴るのを俥の上で聞いて行った。橋を渡り、電車路を横ぎった。新しい年を迎え顔な人達は祭礼《まつり》の季節にも勝《まさ》って楽しげに町々を往《い》ったり来たりしていた。川蒸汽の音の聞えるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川《すみだがわ》の水が見える。その辺は岸本に取って少年時代からの記憶のあるところであった。
元園町の友人は古い江戸風の残った気持よく清潔な二階座敷で岸本を待受けていた。この友人が多忙《いそが》しい身《からだ》に僅《わずか》の閑《ひま》を見つけて隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄《よこ》した。
「御無沙汰《ごぶさた》しました」
と言って坐り直す元園町をも、岸本をも、「先生、先生」と呼ぶほど、その家には客扱いに慣れた女達が揃《そろ》っていた。
「元園町の先生は先刻《さっき》から御待兼《おまちかね》でございます」
と髪の薄い女中が言うと、年嵩《としかさ》な方の女中がそれを引取って、至極|慇懃《いんぎん》な調子で、
「岸本先生もしばらく御見えに成りませんから、どうなすったろうッて皆で御噂を申しておりましたよ。御宅でも皆さん御変りもございませんか。坊ちゃん方も御丈夫で」
岸本が古い小曲の一ふしも聞いて見るために友人と集ったり、折々は独りでもやって来て心を慰めようとしたのは、その二階座敷であった。年と共に募る憂鬱《ゆううつ》な彼の心は何等《なんら》かの形で音楽を求めずにいられなかった。曾て彼が一度、旧友の足立をその二階に案内した時、「岸本君がこういうところへ来るように成ったかと思うと面白いよ」と言って足立は笑ったこともあった。どうかすると彼は逢《あ》い過ぎるほど逢わねば成らないような客をその二階に避け、諸方《ほうぼう》から貰った手紙を一まとめにして持って来て、半日独りで読み暮すこともあった。彼は自分と全く生立《おいた》ちを異にしたような人達と話すことを好む方で、そこに奉公する女達のさまざまな身上話に耳を傾け、そこに集る年老た客や年若な客の噂に耳を傾け、時には芸で身を立てようとする娘達ばかりを自分の周囲《まわり》に集め、彼等の若い恋を語らせて、それを聞くのを楽みとしたこともあった。一生舞台の上で花を咲かせる時もなく老朽ちてしまったような俳優がその座敷の床の間の花を活《い》けるために、もう何年となく通って来ているということまで岸本は知っていた。
「岸本さんに御酌しないか」と元園町は傍《そば》にいる女を顧みて言った。
「今お熱いのを持って参ります」
と言いながら女中はそこにある徳利を持添えて岸本に酒を勧めた。
「ああああ、久しぶりでこういうところへやって来た」
岸本は独語のようにそれを言って、酒の香を嗅《か》いで見た。
十八
元園町は岸本の前に居た。しかも岸本がそんな深傷《ふかで》を負っていようとは知らずに酒を飲んでいた。何事も打明けて相談して見たら随分力に成ってくれそうな、思慮と激情とが同時に一人の人にあるこの友人の顔を見ながら、岸本は自分の身に起ったことを仄《ほのめ》かそうともしなかった。それを仄かすことすら羞《は》じた。
「先生、お熱いのが参りました」
女中の一人が勧めてくれるのを盃《さかずき》に受けて、岸本は皆の楽しい話声を聞きながら、すこしばかりの酒をやっていた。何時《いつ》の間にか彼の心はずっと以前に就《つ》いて学んだことのある旧師の方へ行った。その先生が三度目に結婚した奥さんの方へ行った。その奥さんの若い妹の方へ行った。花なぞを植えて静かに老年の時を送ろうとした先生がしばらく奥さんと別れ住んでいたというその幽棲《すまい》の方へ行った。先生と奥さんの妹との関係は、岸本と姪との関係に似ているかどうかそこまでは彼もよく知らなかったが、すくなくも結果に於《お》いては似ていた。深夜に人知れずある医師の門を叩《たた》いたという先生の心の懊悩《おうのう》を岸本は自分の胸に描いて見た。道理ある医師の言葉に服して再びその門を出たという先生の悔恨をも胸に描いて見た。しばらく彼の心は眼前《めのまえ》にあることを離れてしまった。
「岸本先生は何をそんなに考えていらっしゃるんですか」
と年嵩な方の女中が岸本の顔を見て言った。
「私ですか……」と岸本は自分の前にある盃を眺めながら、「考えたところで仕方のないことを考えていますよ」
「今日は何物《なんに》も召上って下さらないじゃありませんか。折角のお露《つゆ》が冷《さ》めてしまいます」
「私は先刻《さっき》からそう思って拝見しているところなんですけれど、今日は先生のお顔色も好くない」ともう一人の女中が言い添えた。
「ほんとに岸本先生はお目にかかる度《たんび》に違ってお見えなさる……紅い顔をしていらっしゃるかと思うと、どうかなすったんじゃないかと思うほど蒼《あお》い顔をしていらっしゃることがある……」
こうそこへ来て酒の興を添えている年の若い痩《や》せぎすな女も言った。岸本はこの女がまだ赤い襟《えり》を掛けているようなほんの小娘の時分から贔屓《ひいき》にして、宴会なぞのある時にはよく呼んで働いて貰うことにしていた。この人も最早《もう》若草のように延びた。
「そこへ行くと、元園町の先生の方は何時見てもお変りなさらない。何時見てもニコニコしていらしって……」と年嵩な女中は言いかけたが、急に気を変えて、「まあ、殿方のことばかり申上げて相済みません」
そう言いながら女中は自分の膝《ひざ》の上に手を置いて御辞儀した。
「歌の一つも聞かせて下さい」
と岸本は言出した。すこしの酒が直《す》ぐに顔へ発しる方の彼も、その日は毎時《いつも》のように酔わなかった。
十九
生きたいと思う心を岸本に起させるものは、不思議にも俗謡を聞く時であった。酒の興を添えにその二階座敷へ来ていた女の一人は、日頃岸本が上方唄《かみがたうた》なぞの好きなことを知っていて、古い、沈んだ、陰気なほど静かな三味線《しゃみせん》の調子に合せて歌った。
「心づくしのナ
この年月《としつき》を、
いつか思ひの
はるゝやと、
心ひとつに
あきらめん――
よしや世の中」
いかなる人に聞かせるために、いかなる人の原作したものとも知れないような古い唄《うた》の文句が、熟した李《すもも》のように色の褪《さ》め変った女の口唇《くちびる》から流れて来た。
「みじか夜の
ゆめはあやなし、
そのうつり香の
悪《に》くて手折《たを》ろか
ぬしなきはなを、
何のさら/\/\、
更に恋は曲者《くせもの》」
元園町の友人の側に居て、この唄を聞いていると、情慾のために苦み悩んだような男や女のことがそれからそれと岸本の胸に引出されて行った。
「元園町の先生は好い顔色におなんなすった」と年嵩《としかさ》の方の女中が言った。
「君の酒は好い酒だ」と岸本も友人の方を見た。
「岸本先生は真実《ほんと》に御酔いなすったということが御有んなさらないでしょう」と髪の薄い女中は二人の客の顔を見比べて、「先生のは御酒もそう召上らず、御遊びもなさらず、まさか先生だって女嫌《おんなぎら》いだという訳でもございますまいが――」
「先生は若い姉さん達を並べて置いて、唯《ただ》眺《なが》めてばかりいらっしゃる」と年嵩な方が引取って笑った。
「しかし、私は何時《いつ》までも先生にそうしていて頂《いただ》きたいと思います」と復《ま》た髪の薄い方の女中が言った。「先生だけはどうかして堕落させたくないと思います」
「私だって弱い人間ですよ」と岸本が言った。
「いえ、手前共のようなところへもこうして御贔屓《ごひいき》にしていらしって下さるのが、何よりでございます。そりゃもう御察しいたしております。歌の一つも聞いて見ようという御心持は手前共にもよく分っております……」
「よくそれでも御辛抱が続くと思いますよ。そんなにしていらしって、先生はお寂しか有りませんか……奥さんもお迎えなさらず……」
元園町は盃を手にしてさも心地《ここち》よさそうに皆の話を聞いていたが、急に岸本の方を強く見て言った。
「岸本君の独《ひと》りで居るのは、今だに僕には疑問です」
岸本は人知れず溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
二十
「僕は友人としての岸本君を尊敬してはいますが」とその時、元園町は酒の上で岸本を叱《しか》るように言った。「一体、この男は馬鹿です」
「ヨウヨウ」と髪の薄い女中は手を打って笑った。「元園町の先生の十八番《おはこ》が出ましたね」
「あの『馬鹿』が出るようでなくッちゃ、元園町の先生は好い御心持に御酔いなさらない」と年嵩な方の女中も一緒に成って笑った。
岸本は自分の家の方に仕残した用事があって、長くもこの場所に居なかった。心持好さそうに酔い寛《くつろ》いでいる友人を二階座敷に残して置いて、やがてその家を出た。色彩も、音曲《おんぎょく》も、楽しい女の笑い声も、すべて人を享楽させるためにあるような空気の中から離れて行った時は、余計に岸本の心は沈んでしまった。
岸本は家をさして歩いた。大川端《おおかわばた》まで出ると酒も醒《さ》めた。身に浸《し》みるような冷い河風の刺激を感じながら、少年の時分に恩人の田辺の家の方からよく歩き廻りに来た河岸《かし》を通って両国の橋の畔《ほとり》にかかった。名高い往昔《むかし》の船宿の名残《なご》りを看板だけに留《とど》めている家の側を過ぎて砂揚場《すなあげば》のあるところへ出た。神田川の方からゆるく流れて来る黒ずんだ水が岸本の眼に映った。その水が隅田川に落合うあたりの岸近くには都鳥も群れ集って浮いていた。ふと岸本はその砂揚場の近くで遭遇《でっくわ》した出来事を思い出した。妊娠した若い女の死体がその辺へ流れ着いたことを思出した。曾《かつ》て検屍《けんし》の後の湿った砂なぞを眺めた彼自身にも勝《まさ》って、一層よく岸本はその水辺の悲劇の意味を読むことが出来た。その心持から、彼は言いあらわし難い恐怖を誘われた。
急いで岸本は橋を渡った。すたすた家の方へ帰って
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