燻Uりぬ
君もなく我が身もなくて魂《たま》二つ静かにはるのひかりのなかに
青葉もる春のひかりはやはらかく苔むせる石のうへに落ちけり
手をとりて静かにあゆむ石段やはるかぜゆるくおくれ毛をふく」
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これを読んで岸本は墓地での印象が彼女の上にも深かったことを知った。
その頃からの節子は顔の白いものなぞもなるべく薄く目立たないようにつくろうとする人に成って行った。この事は些細《ささい》ながらに岸本の心を悦《よろこ》ばせた。彼女の顔の淡いよそおいは、こころよく岸本の忠告を容《い》れたのであるから。それがまた今までに比べてどれ程彼女を自然にしたか知れなかったから。同時に彼は老い行こうとするものの心づかいが知らず識《し》らずの間にこんな忠告の形を取ってあらわれて来たことを考えて、なるべく彼女の目立たないようにとは、その実自分の嫉妬《しっと》であることを心に恥じない訳に行かなかった。どうかするとその心は、年若な人達に接触する機会を持った彼女の境遇に向わないでは無かった。でもその嫉妬は軽く通過ぎて行ってしまうような、そんな程度のものであった。ある時、彼は節子の前に、その心を話して見る折を持ったことも有った。
「俺のところへは随分いろいろな女の人が訪ねて来るぜ。お前はそれでも気に成らないかね」
と彼の方で串談《じょうだん》半分に言出して見た時でも、節子は苦笑《にがわらい》して取合わなかった。
「こういう心持には嫉妬は附き物なんだ。別にそんなものの起って来ないところは不思議じゃないか」
と彼の方で言うと、節子は例の調子で、
「そんな余裕が無いんでしょうに……」
と答えたこともあった。
節子が一切をささげて岸本に随おうとする心は、それが彼にもよく感じられた。「お前は何時までも俺のものかい」と彼の方で訊《き》いた時に、「ええ何時までも」と答えた通り、彼女はすでにすでに岸本のものであった。それにも関《かかわ》らず、求めても求めても得られない愛着の切なさは、自分のものでありながら自分のもので無いと思う節子をどうすることも出来なかった。夜になると、寂しいところにある彼のたましいはよく節子の名を呼んだ。彼女は自分と共にある、自分もまた彼女と共にあるだろうか、そんなことを思いながら独り寝た。どうかすると彼は半分夢のように、自分の耳の底の方で優しいささやくような声を聞いた。
「わたしの旦那《だんな》さん」
熱心にその声を探そうとする度《たび》に何物も彼の腕の中には無かった。唯彼の手は空虚を掴《つか》んだ。
八十
義雄兄の家族と分離してから以来《このかた》岸本が祖母《おばあ》さんを借り久米を借りして始めて見た簡易な生活も半年ばかり続いた。岸本の方に無くて叶《かな》わぬ祖母さんは、兄の方にも無くて叶わぬ家庭の調和者で、そうそう長く高輪の家に引留めて置けない事情が起きて来た。岸本がこの祖母さんを失うのは、自分の家から中心の人を失うに等しかったのみならず、彼は折角自分の許《もと》へ勉強するつもりで来てくれた久米に対しても、とかく子供等のために煩《わずら》わされ勝ちなのを気の毒に思うように成った。彼は不自然に抑《おさ》えられていた子供等の性質が如何《いか》に急激に祖母さんや久米の温情の下に緩《ゆる》められたかを見た。その結果は、母親のない子供等を慰めることは出来ても叱《しか》ることの出来ない人達に取って、いかに頭痛の種であるかを見た。殊《こと》に二番目の繁が一度愚図り始めたら、泣くだけ泣かなければ止《や》まないという風で、日に日に募って行くこの児の駄々《だだ》は久米をも女中をも泣かせてしまうのを見た。どうしてもこれは自分で養うの外は無い、なるべく自然な方へ頼りの無い子供等を連れて行って彼等の成長を待つの外は無い。こう岸本は考えて、どのみち高輪の家を解散しようと思い立つように成った。彼は自分の子供等のことで、これ以上祖母さんや久米に心配を掛けるには忍びなかった。
そこで彼は一つの試みを思い立った。それは泉太や繁と一緒に下宿へ移るということであった。彼は巴里《パリ》の方で経験して来た三年の下宿生活が何等《なんら》かこの試みに役に立つであろうという期待を持った。尤《もっと》もその事は未《ま》だ誰にも言わずにあった。
節子のために再婚を断念して掛った岸本がこうして家庭というものを出てしまうということは、そして旅人の生活に帰って行くということは、寧《むし》ろ彼には当然の成行《なりゆき》と思われた。その心持で、ある日彼は谷中の方からやって来る節子を待受けた。
節子は訪《たず》ねて来た。丁度家のものは祖母さんはじめ子供から女中まで上野の方へ花見に出掛けた時で、岸本|独《ひと》り寂しく留守をしていた。節子は例のように先《ま》ず祖母さんを見ようとして、長火鉢《ながひばち》の置いてある部屋の方へ行った。
「祖母さんは?」
と訊《き》く彼女を迎えて見ると、まるで家の内は寺院《おてら》のようにしんかんとしていた。岸本は以前の浅草の家の方で、よく家のものを送り出し、表の門を閉めて置いて、独り居る寂しさを楽んだことなぞを思い出した。
「今日は皆お花見さ、俺《おれ》独りお留守居だ。お前も帰るなら、もう帰っても可《い》い」
「そんなら帰りましょうか」
と節子はわざと言って見せて、それから、廊下づたいに奥の部屋へ来た。岸本は誰よりも先ず節子に自分の手一つで泉太や繁を養って見ようと思い立っていること、それには遠からず適当な下宿を見つけて子供等と一緒に移り住もうと考えいることなぞを言出した。
「男の手で果してこんなことが出来るだろうか。出来ても、出来なくても、まあ俺は自分で子供を育てて見るつもりだ」
この岸本の思い立ちは、それほど節子を驚かしもしなかった。
八十一
「いよいよ高輪もお仕舞《しまい》ですかねえ」
そういう節子は、この屋根の下に岸本よりも多くの記憶を持っていた。彼女をこの家に移して置いてそれから遠い旅に上ったのは岸本であっても、三年の暗い月日をここに送ったのは彼女自身であるから。
その時に成って見ると、四年このかた住み荒した家の内のさまが今更のように岸本の眼についた。四年前節子が品川の方に起る汽車の響の聞えなくなるまで同じところに立ちつくしたという庭先へは、最早濃い春がめぐって来ていて、青々とした若葉の色は草木の感じを深くした。ろくろく手入をしたことの無い庭の植木という植木は一つとして野性に帰っていないものは無いかのように見えた。梅の枝なぞは殊に延び放題延びて、黒ずんだ旧葉《ふるは》の上に更に新しい葉を着けていた。庭の片隅《かたすみ》には乙女椿《おとめつばき》と並んだ、遅咲の紅《あか》い椿もあった。その花のさかり、青葉のさかりは、荒れ朽ちた軒端《のきば》の感じに混って奥の部屋の縁先にある古い硝子戸《ガラスど》に迫って来るかのように映っていた。
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「灰色に銀糸まじれる遠方《をちかた》の夕立のごとき思ひ出の家
銀もよし灰色もまたなつかしやくりひろげたる絵まきものみな」
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岸本の胸に浮ぶのはこの歌であった。高輪も終に近いかと思えば名残《なごり》惜しいとして、最近に節子から貰《もら》った手紙の中に書添えてあった歌だ。尤《もっと》も、彼は下手《へた》にそんな文句を言出したりなぞして、彼女の顔を紅めさせるでもあるまいと思い、それを彼女の前で口吟《くちずさ》んで見ることはしなかった。
「椿がよく咲いていますね」
と言う節子と一緒に、やがて岸本は縁側から庭へ降りて見た。細くて、しかも勁《つよ》い椿の枝の下の方には、大輪な紅い花が葉と葉の間にいくつとなく咲き乱れていた。そっくり花弁《はなびら》の形をそなえたまま庭土の上に落ちたのもあった。岸本は名残惜しそうな眼付をした節子をその椿の樹の下あたりに見た。
「どうだね、お前の髪にでも挿《さ》して見たら」
と岸本が言ったので節子は彼方是方《あちこち》と蕾《つぼみ》を探したが、彼女の取ろうとするのはいずれも彼女の手の届かないところにあった。その時、岸本は節子の手が椿の枝に触れるほどの位置にまで彼女の身体を抱きあげてやるようなユウモアのある心持に成った。
節子はめずらしく快活な、抑《おさ》えきれないような笑声と共に庭へ降りて来た。彼女は折取った紅い椿の蕾を一寸《ちょっと》髪に宛行《あてが》って見せたのみで、別にそれを挿そうとはしなかった。しばらく岸本は縁側に腰掛け、自分の側に節子をも腰掛けさせて、正午近い春の日が庭土の上にあたっているのを眺めながら二人ある静かさを楽しもうとした。
八十二
節子は庭から縁側に上って、昼飯の支度《したく》をするために勝手の方へ行った。昼には、岸本は長火鉢の置いてある祖母さんの部屋で、節子と二人ぎり簡単な食事をやった――彼女が庭から持って来た椿の花の蕾は長火鉢の板の上に載せて置いて。
岸本の眼に映るその日の節子は、日頃気兼ねをしなければ成らない誰のことも全く忘れ去っている人のように見えた。それがまた、あまりに遠慮がちな平素の彼女にも勝《まさ》って、どれ程彼女を自然にしたか知れなかった。濃い茶色の縁を裾《すそ》の方に取ったような※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]幅《ふきはば》の広い質素な着物までが、部屋々々を往《い》ったり来たりする彼女の動作によく似合って見えた。
「お前は一体静かなことが好きなんだろう。そこが俺《おれ》と一致するところかも知れないね」
岸本はこんな言葉を残して置いて、節子をもてなすものを探すために一寸高輪の通りまで行って来ようとした。
「節ちゃん、一寸お留守居を頼んだぜ。俺は行って何か菓子でも見つけて来る」
こう言って出た。
岸本が町から引返して来た時は、節子は奥の部屋に居て茶の用意をしていた。まだ四月の下旬であるというに、彼はめずらしい粽《ちまき》なぞを見つけて来た。男の児の節句も近づいたことを思わせるその笹《ささ》の葉の蒸された香気《におい》は、節子の口から彼女の忘れようとして忘れ得ない子供の噂《うわさ》を引出すに十分であった。岸本は自分と彼女との間に生れた男の児のことに就《つ》いて、その時初めていろいろな話に触れた。
「たしか親夫《ちかお》という名だっけね。あの名は――ほら、坊さんが自分の児に命《つ》けるつもりで考えて置いたやつを、わざわざ譲ってくれたんだなんて、お前の手紙の中に書いてあったじゃないか」
こんな知らない子供の存在を考えて見たばかりでも心の震えた旅の当時に比べると、岸本は全く別の心持で節子の前にそれを言うことが出来るように成った。節子はまた、罪過そのものも今はもう懐《なつ》かしいという面持《おももち》で、しばらく彼女がお産のために行っていたという片田舎《かたいなか》の方へ、そこにある産婆の家の二階の方へ岸本の想像を誘うようにした。不幸で、しかも幸福な子供が生みの親にも劣らぬ親切な両親を得て、平和な農家の家庭に養われているという話になると、彼女の顔には若い母らしい特別な表情さえ浮んだ。
「へえ、その家では釣堀《つりぼり》をやってるのかね。一つ鯉《こい》でも釣りに行くような顔をして、そのうちに訪ねて行って見るかナ」
この岸本の言葉は節子をほほえませた。
「しかし、何処《どこ》でどういう人に逢《あ》うか真実《ほんと》に解《わか》らないものですね――」と節子が言った。「あの田舎で大変御世話になった女のお医者さまのことを巴里へ書いてあげましたろう。あの人に逢いましたよ。お父《とっ》さんの行く眼の病院で……あの人も今では眼科の方の助手なんでしょう」
しばらく節子の話は途切れた。その沈黙の何であるかは物を言うよりもはっきりと岸本の胸に通って来た。
「お前のお母《っか》さんは、一体どうなんだろう」と岸本はその沈黙の続いた後で言出した。「お母さんは『あの事』を知ってるんだろうか――」
「お母さん
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