Nしていた。
「でも、妙なものですねえ」
 と節子は岸本の方を見て、彼女の内部《なか》に起って来る無量の感慨をそうした僅《わずか》な言葉で言い表して見せようとした。
 その時、岸本の胸には旅にある間かずかずの腑《ふ》に落ちない手紙を彼女から貰《もら》ったことが浮んで来た。神戸で受取り巴里《パリ》で受取った姪の手紙は、今だに彼には疑問として残っていた。彼は初めてあの手紙のことを節子の前に言出して見る気に成った。
「どういうつもりでお前はああいう手紙を叔父さんの許《ところ》へよこしたのかね」
 この岸本の問には節子は何とも答えようのないという風で、黙ってうつむいてしまった。
「俺《おれ》は又、お前が自分の子供のことを考えて、それでああいう手紙をくれるんだと思っていた――そうじゃないのかね」
「今にもう何でも話します」
 節子は言葉に力を籠《こ》めて、唯《ただ》それだけのことを答えた。何時《いつ》の間にか彼女の眼には復た熱い涙が湧《わ》いて来た。それが留め度も無いように彼女の女らしい顔を流れた。

        四十六

「捨吉、すこしお前に話すことがある。後でお前の二階の方へ行こう」
 とある日、義雄はそのことを岸本に告げた。
 岸本は自分の借りている二階の方で兄を待受けた。いつも兄が家の方で岸本と話す場合には、祖母《おばあ》さんとか嫂《あによめ》とかが隣室に居る奥の部屋だ。この兄が誰も家のものの聴《き》いていないところで話しに来ようということは、それだけでも岸本には何か意味ありげに思われた。彼は二階の障子に近く行って立って見た。もう秋の蜻蛉《とんぼ》がさかんに町の空を飛んだ。泉太や繁は近くにある古い池の方へ行って蜻蛉釣に夢中になっている頃だ。往来へ射《さ》して来ている午後の日あたりを眺《なが》めても九月の末を思わせる。長い黐竿《もちざお》をかついで池の方へ通う近所の子供等も二階から見えた。そのうちに岸本は家の方から往来の片側を通って来る兄の姿を見かけた。
 やがて義雄は階下《した》から楼梯《はしごだん》を登って来た。
「うむ、これは明るい二階だ。まあお茶でも一つ呼ばれよう」
 こう言う兄を前にして、二人ぎりで差向いに坐って見ると、岸本の胸には節子のことが騒がしく往《い》ったり来たりした。とても彼にはこの仮の書斎で兄と共に茶話《ちゃばなし》を楽しむほどの心には成れなかった。義雄の話の中には、長いこと弟の子供の世話で骨の折れたことや、岸本の留守中に嫂が泉太や繁を断りたいと言出して、それを兄が頑《がん》として聞入れなかったということなぞが、それからそれへと引出されて行った。
「一旦《いったん》俺は自分の身に引受けたことは、飽までもそれを守り貫く。子供のことばかりじゃないテ。これは言うべきことで無いと思ったら、仮令《たとえ》自分の妻《さい》にだって決して話さん」
 義雄の話がちょいちょい岸本の痛いところへ触《さわ》りかける度《たび》に、岸本はそれを言出されるのを苦痛に感じた。兄はまた泉太や繁の話に戻って、あの子供等が嫂の方に懐《なつ》かないで、仮令|叱《しか》られても何でも兄の方に懐いて来るということなぞを岸本に語り聞かせた。
 二時間ばかりも義雄は弟の二階に居た。岸本は手を揉《も》みながら二階を降りて行く兄を見送った。彼は独《ひと》りになってから、その日の兄の置いて行った話を自分の胸に纏《まと》めて見た。要するに嫂の噂《うわさ》であった。嫂の愚痴の源を、兄はあの嫂に隠していることがあるからだというその兄弟だけの深い秘密に持って行って見せたのであった。
 こうした兄の話は、万更《まんざら》岸本にも思い当らないでは無かった。彼は一度家の方で嫂と話したことがある。その時嫂は彼に向って、「義雄さんは私に隠していることがある」と険しい眼付をして言ったこともあるし、「私達が東京へ出るように成ったのは、一体誰から言出したことなんですか――」と言って彼に問詰めたこともある。かねてからあの嫂の前に詫《わ》びよう詫びようと思っている彼に取っては、その時ほど好い機会は無かった。「詫びるなら、今だ」と命ずるような声を彼は自分の頭の上で聞かないでは無かった。けれども、彼は跨《また》ぎにくい留守宅の敷居を跨いで兄や嫂と顔を合せたそもそもの日にもう詫び損《そこ》ねてしまった。今更それを言出すことも出来なかった。帰国以来急激に変って来た節子との関係から言っても、猶々《なおなお》それが出来なくなった。罪の深いもの同志が如何《いか》に互の苦悩から救われようとして悶《もが》こうと、誰がそんな寝言のようなことを信じよう、そう考えて岸本は部屋の障子の側《わき》に悄然《しょうぜん》と立ちつくした。

        四十七

 泉太や繁のためから言っても、岸本は何時まで二家族|同棲《どうせい》のような現在の仮の状態を続けて行くべきでは無いと思って来た。義雄兄の残して置いて行った嫂の噂はこの決心を促させた。
「叔父さん、お父《とっ》さんは何か言いましたか」
 と節子が家の方から洗濯物を擁《かか》えて来て一寸《ちょっと》岸本の二階へ顔を見せた。彼女は父がこの二階で話したことを心配顔に訊《き》いた。
「なんにもお前の話は出なかったよ」
 と岸本は言って見せた。やがて彼は自分の紙入からいくらかの金を取り出して、それを節子の前に置いた。
「節ちゃん、これはお前の稼《かせ》いだ分だ。お前はそのお金を全部お母《っか》さんの方へ進《あ》げておしまい。お前の生活費だけは毎月これから俺の方で保証してあげる。叔父さんも旅から帰ったばかりで、何もかも一人では容易じゃ無いんだが――」
「どうも済みません」
 と答えながら、節子は叔父のこころざしを帯の間に納めた。
 その日は岸本も例《いつも》より早く二階を仕舞って家の方へ帰って行った。丁度家の格子戸《こうしど》の前で、古い池の方から長い黐竿を提《さ》げて戻って来る二人の子供と一緒に成った。一郎と繁だ。
「父さん。銀」
 と繁は指の間に挾《はさ》んだ青い銀色の蜻蛉を父に見せた。
「へえ。お前達はよくそれでも感心にいろいろな蜻蛉の名なぞを知ってるね」
 と岸本が言うと、繁は一郎の方を見て、
「蜻蛉の名ぐらい知らなくって――ねえ、一ちゃん」
「叔父さん、言って見せようか」と一郎は岸本の前に立って、「銀に、汐辛《しおから》に、麦藁《むぎわら》に、それから赤蜻蛉にサ」
「ホラ、黒と黄色の大泥棒――随分、あの池にはいろいろな蜻蛉が居るね」と繁は相槌《あいづち》を打った。
 岸本は格子戸の内から直《す》ぐ玄関先へ上らないで、繁と一緒に潜戸《くぐりど》から庭の方へ抜けた。庭から長火鉢《ながひばち》のある部屋を通して奥の方までも見透される。祖母さんをはじめ、嫂、節子が夕飯の支度《したく》をしながら立働いているのが見える。
 その時、岸本は庭の隅《すみ》に黐竿を立掛けた繁の側へ寄って、低い声で言った。
「繁ちゃん、お前は一ちゃんや次郎ちゃんと喧嘩《けんか》するんじゃないよ――次郎ちゃんはまだ幼少《ちいさ》いんだからね。いいかい。伯母《おば》さんの言うこともよく聞くんだぜ」
 繁は点頭《うなず》いて見せたかと思うと直ぐ父の側を離れて、ぷいと飛んで行ってしまった。
 まだ庭の濃い椿《つばき》の葉なぞは明るかった。岸本はその足で庭から縁側の上に登《あが》って、仏壇のある部屋の方まで行って見た。仮令僅でも節子が自分に取れた報酬を母の手に渡すように成ったことは、何となく彼女の位置を変えて見せた。
「お蔭で、節も稼《かせ》ぐように成りましたよ。彼女《あれ》がお金を持って来て見せましたよ」
 こう言う嫂の機嫌《きげん》の好い顔は実に何年|振《ぶり》で節子の見たものであったか、とそれを岸本も心ひそかに想像した。

        四十八

「叔父さんの馬鹿やい」
 と言いながら次郎は縁側に立って夕飯の時を待つ岸本の側へ寄った。この兄の二番目の子供は「馬鹿やい」を言うほど岸本に対しても遠慮が無くなって来た。どうかすると次郎は外来の食客を見るような眼で叔父を見た。次郎はまた父あり母ある自己《おのれ》の強さを示そうとするかのように、
「この野郎、打《ぶ》つぞ」
 と岸本の方を見て肩を怒らした。嫂はそれを聞きつけたかして、
「次郎ちゃん、そうお前のように威張るんじゃないって言うに」
 と子供を叱るように言った。そう言って叱るこの次郎が嫂にはまた可愛くて、可愛くて、眼の中へ入っても痛くないという風であった。
 夕飯後に、岸本は自分の子供の側で時を送ろうとした。そこへ義雄兄も来て一緒に寛《くつろ》いだ。義雄は弟の留守中世話して見た子供の性質を言って聞かせるようにして、側へ来て立つ繁の方を岸本に指《さ》して見せながら、
「繁ちゃんか。この男はこれでなかなか滑稽家《こっけいか》です」
 そう伯父に言われた繁はすこし身を跼《こご》めて薄笑いした。次郎がそこへ飛んで来た。次郎は父や叔父の見物のあるのを何より悦《よろこ》ばしそうにして、いきなり繁に組付いた。畳の上では二人の子供の相撲《すもう》が始まった。
 繁は次郎に負けて見せた。それを見ていた義雄は繁のわざと投げられた呼吸がさも耐えられないかのように、
「繁ちゃんはそれでも、泉ちゃんと一ちゃんと三人の中では一番相撲は上手だ。まあ家中で、喧嘩をして一番強いのは一ちゃんだ。そのかわり相撲となると繁ちゃんに負ける。繁ちゃんはあれで子供のくせに、いくらか相撲の手を心得てるんだね」
 こう言って義雄は笑った。その時岸本は一郎の方を見て、
「一ちゃんはなかなか敏捷《はしこ》いようですね」
「うむ、あれはまあ才子かも知れない」と言って義雄は腮《あご》を撫《な》でて見て、「そのかわり早熟な方で、すこし勉強すると頭脳《あたま》が痛いなんて、そんな弱いものじゃ話に成りゃしない。泉ちゃんと来たら、これはまたシンネリ、ムッツリの方サ。何を言われても黙っている。でも泉ちゃんは根気は好いぞ。半日一つ事に取付いても飽きないで遣《や》ってる。ああいうのが結局勝利を得るかも知れんテ」
 岸本は自分の子供の方を眺めて、泉太の沈黙が矢張長い留守居から来た不自然なものではないかと想って見た。あの浅草の以前の住居の方で節子をよく泣かせたほどの激しい気象を持った繁が父の留守中のことも思いやられた。岸本は家の中を眺め廻した。こうして義雄兄の子供と自分の子供とを一緒に置くことの結果を考えた。仮令兄には懐《なつ》いても、嫂には懐かないという家庭の空気の中に子供等を置くことの結果をも考えた。いずれは竈《かまど》を分けなければ成らない。兄の家族と別れ住むことを考えなければ成らない。その心支度をすることも彼に取っては礼奉公の一つであると考えた。

        四十九

 十一月を迎えるように成って節子は眼に見えて違って来た。三年も彼女の側に居て彼女のために心配しつづけた祖母さんまでがそれを言うほど違って来た。彼女の動作から彼女の声までも生々として来た。
「でも、ほんとに力を頂きましたねえ」
 節子は岸本の二階に来てそう言って悦《よろこ》んで見せるほどに成った。
 こうした力は――それを貰ったと言って見せる節子の方ばかりでなく、どうかして彼女を生かしたいと思う岸本の方にも強く働いて来た。ほんとうに人一人でも救いたいと考えれば考えるほど、彼は節子の違って来たのを自分の胸に浮べて、その生命《いのち》の動きから湧《わ》いて来る歓喜《よろこび》を自分の身に切に感ずるように成った。のみならず、彼自身と姪との関係までも何となく変質したものと成って行くのを感じて来た。
 もとより岸本は、姪の意志を曲げさせてまでも、無理に彼女を間違った方へ連れて行くつもりは無かった。彼と節子との間には二度結びついてしまうほどの根深いある物が横たわっていた。到底|姑息《こそく》な手段によって互の苦悩から救わるべくも無かった。叔父としての彼が苦しむ罪は、姪としての節子が苦しむ罪だ。もし節子の方から進んで罪過の責を分とうとし、彼
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