ヘ彼は自分の仕事を手伝わせ、談話を筆記することなぞを覚えさせ、その報酬を名としていくらかでも彼女を助けたいと考えた。そうして節子に働くことを教えるばかりでなく、どうかして生き甲斐《がい》のあるような心を起させたいと願った。
この発案は郷里の方から戻って来た義雄兄を悦《よろこ》ばした。嫂をも悦ばした。
「節ちゃんは手が悪いと言っても水仕事が出来ないだけで、筆を持つには差支《さしつかえ》が無いんでしょう」
と岸本が言うと、嫂と一緒に居た祖母さんも口を添えて、
「ええええ、節はあれで何か書くようなことは好きな方だぞなし。独《ひと》りで根気に何かよく書いたり読んだりします」
「や。その話は好い話だぞ。そいつは面白かろう」
と義雄も言った。嫂はそれを引取って、
「ヤクザなものだ、ヤクザなものだッて、父さんは節のことを悪くばかり言って――九円でも十円でも取ろうと思えば取れるものを」
そう言って涙ぐんだ。
岸本は例の二階へ行って、自分の言出したことが誰よりも先ず節子を励ましたのを嬉しく思った。彼はその部屋に独り居て、節子が家の方から三時の茶菓子なぞを運んで来た序《ついで》に置いて行ったものを取出して読んで見た。それには種々なことが書いてあった。
「母親は仮令《たとえ》どんなに多くの子供を持とうとも、二六時中子供にばかり煩わされていることは決して決してよい事ではない。どんな場合にも、深い同情者、親切な相談相手、賢い導き手でなければ成らないことは勿論《もちろん》であるけれど、ある程度までの独立自治の心が欲しい。子供はそれによって尊い経験が得られ、母親はそれによって自分の世界を開拓する時を得ることが出来ると思う。こうしたおたがいの最善の理解の上に、はじめて秩序あり生命《いのち》あるまことの生活が営まれる。姑息《こそく》の愛に生命は無い」
折に触れて節子が書きつけたらしい紙のはじには、誰に見せるためでもない女らしい感想めいたきれぎれの言葉が彼女の閉塞《とじふさ》がったような小さな胸から滲出《しみだ》して来ていた。
「どんなに僅《わず》かでも『主我』のこころのまじった忠告には、人を動かす力はない」
岸本は微笑《ほほえ》みながら節子が書いたものを読みつづけた。丁度|吃《ども》った人の口から泄《も》れる言葉のようにポツリポツリと物が言ってあったからで。
「すべて、徹底を願うことは、それにともなう苦痛も多い。しかしそれによって与えられる快感は何ものにも見出《みいだ》すことが出来ない……自分の眼に見、耳にきき、自分の足で歩まなければ成らぬ」
三十九
まだその他に節子が読んで見てくれと言って置いて行ったものの中には、岸本の帰りの旅を待受ける頃の彼女の心持を書いたものがあり、彼女が産後の乳腫《ちちばれ》で切開の手術を受けるためにある小さな病院に居たという頃のことを日記風に書いたものもあった。いずれも尖《とが》りすぎるほど尖った神経と狭い女の胸とを示したようなもので、読んで見る岸本には余り好い気持はしなかった。
「ほんとに、愛したことも愛されたことも無いような不幸な人だ」
と岸本は言って見た。
節子は母親に許されて家の方から岸本を見に来た日のことであった。いくらかでも叔父の仕事を手伝うことは、こうして彼女の通って来る機会を多くした。まだ彼女は叔父の談話なぞを筆記するに慣れていなかった。それに彼女に与える仕事もそう時を定めて有る訳ではなかった。その日は彼は節子のやって来てくれたことに満足して、取り散らした部屋の内でも片付けて貰《もら》おうとした。
「でも、浅草の方に居た時分から見ると、よっぽどお前も違って来たね」
と岸本は節子の方を見て言った。節子は相変らず言葉も少なかったが、でもこうした延び延びとした気持で居られるのはこの二階に居る時だけだという風で、部屋の隅《すみ》にある茶道具の方へ行ったり床の間に積重ねてある書籍の方へ行ったりして、そこいらを取片付けていた。
「これまでお前がいろいろな目に逢《あ》ったのは無駄には成らなかったと思うね。結局お前を良くしたと思うね」
とまた岸本が言って見せると、節子は叔父からそう言われることをさも張合のありそうにして、軽く溜息《ためいき》を吐《つ》いて見せた。
「お前の心持なぞはお母さん達とは大分違って来ているんだろう」
「みんな――裏切られてしまうんですもの」
節子は僅《わず》かにそれだけのことを言って、俯向《うつむ》いてしまった。
何となく岸本の眼には以前の節子とは別の人かと思われるほどの節子が見えて来た。学校を出てまだ間も無かったような娘らしい人のかわりに、今はずっと姉さんらしい調子で物を言う人が居た。なんにも世の中のことを思い知らなかったような人のかわりに、今はいろいろな悲しみ苦みを通って来た人が居た。どうかすると岸本は兄や嫂《あによめ》なぞの認めもせず、また認めようともしないものをこの節子に見つけることが出来るように思って来た。三年前に比べると、それだけもう二人の位置が変って来ていた。
四十
仮の書斎とした部屋の押入には岸本が自分の身体を養うつもりで買って来た葡萄酒《ぶどうしゅ》が入れてあった。仏蘭西《フランス》産としてあって、旅で飲み慣れたように価もそう安くは求められない。彼はその壜《びん》を押入から取出して、
「こいつは自分で飲むつもりだったが、まあそっちへ進《あ》げる。下手《へた》な薬なぞよりは反《かえ》ってこの方が好い。毎日すこしずつお上り」
と言って節子の前に置いた。
「節ちゃんはそんなに酷《ひど》く瘠《や》せたようにも思われないが――」と復《ま》た彼は言葉を継いだ。「それでも前から比べるとずっと瘠せたかねえ。お前は元から瘠せたような人じゃなかったか」
「前にはこれでも肥《ふと》っていましたとも」と節子はすこし萎《しお》れながら「祖母《おばあ》さんがよくそう言いますよ――『あんなに肥っていた娘がどうしてそんなに瘠せてしまった』ッて」
「お前の髪の毛だって、そんなに切れてもいないじゃないか。そんなに有れば沢山じゃないか。お前が巴里《パリ》へよこした手紙には、心細いほど赤く短く切れちゃったなんて書いてあったっけが」
「漸《ようや》くこれだけに成ったんですよ――」
と節子は言って、生《は》え際《ぎわ》のあたりの髪の毛をわざと額のところへ垂《た》れ下げて見せた。
「節ちゃんは苦労して、以前《まえ》から比べるとずっと良くなった。何だか俺《おれ》はお前が好きに成って来た――前にはそう好きでもなかったが」
めずらしく岸本はこんなことを言出した。それを聞くと節子はいろいろなことを思出したように、叔父が遠い国へ行くからこうして復た一緒に話の出来るまでの彼女自身の艱難《かんなん》な月日のことを胸に浮べるという風で、首を垂れたまま黙ってしまった。
やがて岸本は節子に葡萄酒を持たせて家の方へかえしてやった。その時になってもまだ彼は再婚の望みを捨てなかった。自分[#「自分」は底本では「自然」]も適当な人と共に家庭をつくり、節子にもまた新しい家庭の人となることを勧めようというその旅から持って帰って来た考えは彼を支配していた。神戸からの帰京の途次訪ねる筈《はず》であった大阪の方の人の話はその後|何等《なんら》の手掛りもなかったが、しかし彼の帰国はその他にも適当な候補者を与えられそうに見えた。現に根岸の姪《めい》(愛子)の以前師事した校長先生という人からも、縁談に関した手紙を貰った。校長先生の筆で、是非彼に勧めたい人があると言って、先方《さき》でもこの話の成立つことをひどく希望していると書いてよこしてくれた。委細は根岸に聞いて見てくれ、世話したいと思う人と愛子とは同期の卒業生であるとも書いてよこしてくれた。
この縁談には岸本の心はやや動いた。相手は全く見ず識《し》らずの婦人ではあったが、日頃近い根岸の姪を通して先方《さき》の人となりや周囲の事情を知り得るという何よりの好い手掛りがあった。ともかくも根岸によく相談して見るという礼手紙を校長先生|宛《あて》に出して置いて、彼は愛子から来る報告を待った。
岸本の頭脳《あたま》の内《なか》はシーンとして来た。二度結ばれるように成った節子との関係は彼自身の腑甲斐《ふがい》なさを思わせた。けれども彼は眼前にある事柄にのみ囚《とら》われないで、進路を切開かねば成らないと思った――節子のためにも、彼自身のためにも。
四十一
根岸の姪からは間もなく委《くわ》しいことを知らせてよこした。愛子は彼女の学友に就《つ》いて、岸本の方で知りたいと思うようなことは一々女らしい観察を書いてよこした。その人の生立《おいた》ちに就て。その人の気質に就て。長く東京に住んで見たものでなければ一寸《ちょっと》思い当らないようなその人の江戸風で平和な家庭に就て。愛子は学友の容貌《ようぼう》のことまで書いて、その点で特に取立てて言うほどの人では無いが、しかし細君としては定めし意気で温順《おとな》しい人が出来るであろうし、母親としては叔母さんの子供を好く見てくれるであろう。第一子供をいじめるほどの強い人では無いと書いてよこした。愛子はまた、平常を熟知する学友と彼女との間が近過ぎるため、あまりに多くを言って見る気には成れないが、しかし叔父さんの心がすすんでいるならばこの縁談に賛成することを躊躇《ちゅうちょ》しないと書いてよこした。彼女としても、旧《ふる》い馴染《なじみ》の学友が叔父さんの家庭に入ることを楽しみに思うとも書いてよこした。
ここまで話が実際に形を具《そな》えかけて来た。愛子の報告を読むにつけても、岸本は子まで成した節子と自分との関係が如何《いか》にこの二度目の結婚に影響して行くかを想わずにはいられなかった。彼はまた自分の再婚の場合を仮に節子が他へ嫁《かたづ》いたとして宛嵌《あては》めて見た。
「御手紙は難有《ありがと》う。自分はこの縁談に就いてもっとよく考えて見たい」
こういう意味の返事を根岸へ出して置いて、岸本はこの縁談のあったことを義雄兄に話した。
食事の度《たび》に家の方へ返って行って見ると、岸本は復た節子の容子《ようす》の何時《いつ》の間にか変って来たのに驚かされた。彼が「節ちゃんの低気圧」と名をつけたものは以前に勝《まさ》る激しさをもって彼女の上に表れて来た。
ほとほと岸本は節子の意中を知るに苦んだ。彼が再婚説は他から勧められるまでもなく自ら進んで思い立ったことで、そのことは義雄兄の前ばかりでなく節子にも話し聞かせたことであった。そのために節子が家中の誰とも口を利《き》かないほど機嫌《きげん》の悪い顔を見せようとは、どうあっても彼には考えられなかった。最早《もはや》彼と節子との近さは、以前のように彼女から眼をそむけようとし、なるべく彼女から遠ざかろうとし、唯《ただ》蔭ながら尽そうとしたような、そんな隔りのあるものでは無い。彼女を救おうがためには、彼は既に片腕を差出している。節子はその彼をさえ避けようとした。
「ああ、復《ま》た始まった」
と岸本は独《ひと》りで言って見て、彼女の神経質から堪《たま》らなく苛々《いらいら》としたものを受けた。じっと頭を垂れて考え沈んでしまったような彼女の様子は食卓の周囲《まわり》までも不愉快にした。
四十二
「節ちゃん、お前はどうしたんだねえ」
ある日、岸本はうち萎《しお》れた節子の前に近く行って立った。ややもすれば深い失望にでも堕《お》ちて行こうとする彼女の憂い沈んだ様子は、岸本には観《み》ていられなくなって来た。彼は以前に節子をなだめたと同じようにして、復た彼女をなだめようとした。すると節子はすこし顔色を変えながら繊弱《かよわ》い女の力で岸本の胸のあたりを突き退けた。
こうした節子の低気圧も、しかし以前ほどは続かなかった。激しいだけ、それだけ短かった。その後には以前にも勝る親しみをもって、一層岸本を力にするように成った。
「節ちゃんも
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