Xキイの出発のようにして、進んで戦地に赴《おもむ》き、自ら救おうとする若い仏蘭西人のあることを彼は想像するに難くなかった。戦争を遊戯視し、まるで串談《じょうだん》でも為《し》に行く人のようにして親しい家族や友人に停車場まで見送られたというブロッスの教授の子息《むすこ》さんのことも彼は聞いて知っていた。その心を思うと、実に可傷《いたいた》しかった。死の中から持来す回生の力――それは彼の周囲にある人達の願いであるばかりでなく、また彼自身の熱い望みであった。春が待たれた。
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『寝覚』附記
「寝覚」は、『新生』の改題。
こんな悲哀と苦悩との書ともいうべきものを、今更読者諸君におくるということすら気がひける。しかし、これなしにはあの『嵐』にまで辿《たど》り着いた自分の道筋を明かにすることも出来ない。
この作、もと二部より成るが、本来なら更に一部を書き足《た》し全体を三部作ともして、結局この作の主人公が遠い旅から抱《いだ》いて来た心に帰って行くまでを書いて見なければ、全局の見通しもつきかねるような作で、人生記録としてもまことに不充分なものではある。それに、これを書いた当時と二十年後の今日《こんにち》とでは、周囲の事情も異り、人も変り、そういう自分の心の持ち方も改まって来ている。そんなわけで、この文庫第七篇のためにはむしろ第一部を選び、作中の主人公が遠い旅に出るから帰国を思うまでのくだりにとどめ、題も『寝覚』と改めた。
今日になって見ると、これを書いた当時わたしは新生という言葉に拘泥し過ぎたことに気づく。新生が新生であるというのは、それの達成せられないところにある。そう無造作に出来るものが新生でもない。その意味から言っても、今回改題の『寝覚』こそ、むしろこの作にふさわしい。
この作の第一部は大正七年四月に着手し、東京大阪両朝日紙上に発表した。時に四十七歳。第二部を脱稿したのはその翌年九月のことであった。昭和二年(民国十六年)に、この作は北京《ペキン》大学の徐祖正氏の訳により支那《しな》語に移され、北新書局というところから出版せられた。自分の著作が隣国読書人の間に紹介せられたのも、それが最初の時であった。因《ちなみ》に、翻訳家としての徐氏はわたしたちが想像も及ばないような苦心を積まれるものらしく、これを支那語に訳出するためにはかなりの年月を要せられたという。そのことは徐氏は手紙でわたしのもとへ書いてよこしてくれ、またその訳書の長い序文のはじにも、「此書因種々事故、遷延甚久。如今以這篇年譜為最後工作。在此※[#「目+分」、第3水準1−88−77]望此書之快成、併敬祝原著者健康。」としてあったのも忘れがたい。
この『寝覚』第一部の終の方には作中の主人公が亡《な》き父を思うという一節も出て来るが、今日から見るとその父の取扱い方には不充分な点も多い。子として父の俤《おもかげ》を写して見ようとする場合にすらそれだ。まして他の人の俤をやである。それにつけてもつくづく創作の難《むずかし》いことを知る。のみならず自分はまだ血気|壮《さか》んな頃でもあったから、当時深い感慨をもってこの作に筆を執ったので、自分ながら冷静を欠いたと思われるふしもすくなくない。ただただ自分はこれを書くに当って、熱い汗と、冷い汗とを流しつづけた。内容が内容であるだけに、いろいろな問題を引き起したのもまたこの作であった。しかしわたしは多くの場合に黙して来た。自己を反省することの深ければ深いほど、黙しているのが順当であろうと思われたからであった。
ここに載せる『寝覚』は言わば部分であるが、しかしこれはこれとして、一つの作品とも考えられようかと思う。猶《なお》、いろいろ書きつけて見たいことも多いが、ここに尽せない。
[#改丁、ページの左右中央]
第二巻
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一
三年近い月日が異郷の旅の間に過ぎた。遠い島にでも流された人のように自分の境涯をよく譬《たと》えて見た岸本は、自分で自分の手錠を解き腰繩《こしなわ》を解く思いをして、侘《わび》しい自責の生活から離れようとしていた。
帰国の日も近づいて来た。降誕祭《クリスマス》の前には既に来る筈《はず》であったその日も半年ほど延びて、旅で迎える三度目のあの祭と、翌年の正月とをも、岸本は巴里《パリ》の下宿の方で送った。あの仏国汽船でマルセエユの港に辿《たど》り着き、初めて仏蘭西《フランス》の土を踏んで見た頃から数えると、最早《もう》足掛四年にも成る。国を出た当時の彼の決心から言えば、全く後方《うしろ》を振返って見ないで、知らない土地へ行き、知らない人の中へ入り、そして心の悲哀《かなしみ》を忘れようとしたのであって、生きて還《かえ》れる日のあるかどうかと云うようなことは全く考えられもしなかった。ひょっとすると神戸の港も見納めだ。そう思って出て来た国の方へもう一度足を向けようとすることは、いかにもおめおめと帰って行くような気を起させる。けれども戦時以来旅の方法も尽きて来て、この上の滞在は人に心配を掛けるばかりであったし、国の方に残して置いて来た子供等のこともひどく心に掛った。それに抑制と忍耐との三年近い苦行(?)をまがりなりにも守りつづけて来たことは多少なりとも彼の旅の心を軽くした。彼は出獄の日を待受ける囚人のようにして、もう一度国の方に自分の子供等を見得るの日を待受けた。そろそろ遠い旅支度《たびじたく》をも心掛けねば成らなかった。鞄《かばん》に入れて国から持って来た和服の中には、部屋衣《へやぎ》としてよく取出して着た羽織や着物がある。その中には、亡《な》くなってからもう何年になるかと思われるほどの妻の園子の形見として残った一枚の下着もある。その下着の紺絹のついた裏なぞはすっかり擦切《すりき》れてしまった。巴里に滞在中、東京の元園町の友人の家からわざわざ送り届けてくれた褞袍《どてら》は随分役に立って、長い冬の夜なぞは洋服の上にそれを重ね寛濶《かんかつ》な和服の着心地《きごこち》を楽みながら机に対《むか》ったものであったが、その丈夫な褞袍ですら裾《すそ》から白い綿が見えるほどに成った。秋の末から春のはじめへかけて毎年のように身に着けた背広の服は国の方へ持って行かれないほど着古してしまった。彼は赤い着物でも脱ぎ捨てるように、その古い背広を脱ぎ捨てようとしていた。旅の末には、下宿の部屋の汚《よご》れも眼についた。彼はその長く住慣れた部屋にも別れを告げようとしていた。ある時は眼に見えない牢屋《ろうや》のような思いをしたこともある部屋の石の壁にも。ある時は我と我身を抱き締めるようにして、旅の前途を思い煩《わずら》いながら眺《なが》め入ったこともある部屋の硝子窓《ガラスまど》にも。
「還るのを赦《ゆる》されるのだ」
と彼は自分で自分の帰国のことを言って見た。
二
帰支度をする頃の岸本には、何となく国も遠くなってしまった。彼は三年近くも見ない自分の子供等の急激な成長をどれ程のものともはっきり想像することすら出来なかった。彼の眼にあるは旧《もと》の新橋停車場で別れて来たままの何時《いつ》までも同じように幼い子供等の姿に過ぎなかった。欧羅巴《ヨーロッパ》の戦争はまだ続いていて、下宿と同番地の家番《やばん》の亭主などは出征したぎり、稀《たま》に戦地の方から休暇を貰《もら》って帰って来て顔を見せるくらいのものであったが、そこに留守居する家番のかみさんの子供等は驚くほど大きく成った。階段の昇降《あがりおり》に、岸本はそこいらに遊び戯れている仏蘭西の子供等の側《そば》へよく行った。皆が幾歳《いくつ》になるかということをよく尋ねた。黒い上衣《うわぎ》に短い半ズボンを穿《は》いて脛《すね》をあらわした仏蘭西風の子供の風俗は、国の方で見るものとは似てもつかないようなものばかりだ。でも岸本は側へ来る子供の青い眸《ひとみ》なぞに見入って、国の方に自分を待つ泉太や繁の成長を想像した。これから彼が帰って行って見る泉太はもう十二歳、繁の方は十歳にも成る。
国を出る時子供を頼んで置いて来た節子のことも、泉太や繁の成長を想像すると同時に、岸本の胸に浮んで来た。下宿の主婦《かみさん》の姪《めい》という人は、可哀そうにあの人の婚約して置いた末《すえ》頼もしい仏蘭西人も戦地の方へ行って死んだとやらで、今ではリモオジュの田舎《いなか》の方に帰っているが、あの主婦の姪が丁度節子と同年だ。彼女は気味の悪いほど赤く縮れた髪をもった、巌畳《がんじょう》な体格の女で、リモオジュから主婦の手伝いに巴里へ出て来たばかりの頃《ころ》はいかにも田舎臭い娘であったが、その人がもう一度田舎の方へ帰って行く頃には見違えるほど巴里の風俗を学んで、働き好きな娘らしい手なぞにもさすがに若い女のさかりを思わせるものがあった。背は主婦よりも高かった。この人を通して岸本はよく自分の姪の成長を想像した。若い娘のようにばかり思っていた節子がもう二十四だ。
節子からの便《たよ》りは岸本が下宿を引揚げる前に届いた。彼女はつつましやかな調子で、叔父さんのために帰国の旅の無事を祈るということや、留守宅の子供も極く丈夫で叔父さんの帰りを待侘《まちわ》びているということや、しかし叔父さんが遠からず国に帰ってこの留守宅の様子を見たらどう思うであろうか、それが気遣《きづか》われるということなぞを書いてよこした。
「力強い御留守居も出来ないで、ほんとに御免なさいね」
こんな言葉もその中に書いてあった。
最早|一頃《ひところ》のように恐ろしく神経の尖《とが》った、可傷《いたいた》しい調子は彼女の手紙の中に無かった。殊《こと》にその最近の便りは、旅に来て岸本が彼女から受取ったかずかずの手紙の中でも一番|心易《こころやす》く読めるような、わだかまりの無い調子で書いてあった。
「節ちゃんもこういう調子でいてくれると難有《ありがた》い」
思わず岸本はそれを言って見た。同時に、その年齢《とし》までまだ身もかため得ずにぶらぶらしているらしい彼女の事が、何となく無言な力をもって岸本の胸に迫って来た。
三
国の方で持上《もちあが》る節子の縁談に就《つ》いては、岸本は全くそれを知らないでも無かった。東京の義雄兄からは、まだそんな話のきまらない前に、一度巴里へ知らせてよこしたことも有った。岸本はその便りを読んだ時に、節子には早く身を堅めさせたいというあの兄の焦《あせ》った心を知り、先方《さき》の望み手というは毎月六七十円の収入のある勤め人であることを知り、その人が徳川時代に名高かったある学者の子孫にあたるということをも知った。兄はまた、その縁談の纏《まと》まることを希望しているとも書いてよこした。その後、兄からは何の沙汰《さた》もなく、節子自身からの折々の便りの中にも何もその事に就いて書いて無いところを見ると、恐らくその話は立消《たちぎえ》になったものであろうと思われたが――
こうした消息を胸に浮べて見る度《たび》に、節子が人知れず産み落した子供のこと、切開の手術を受けたという彼女の乳房のこと、何事《なんに》も知らない人が一寸《ちょっと》見たぐらいでは分らないまでに成ったという彼女の身体《からだ》のこと――否《いや》でも応でも岸本の心はそれらの打消しがたい隠れた秘密に触れない訳には行かなかった。これから国をさして帰って行こうとする彼は、過ぐる三年近くの間自分の顔をそむけようとし、心の眼を塞《ふさ》ごうとし、どうかして旅に紛れて忘れよう忘れようとした、その恐しいものに面とむかわねば成らない。彼は写真の中で見てさえマブしいような義雄兄の前に自分を持って行って見た。一語《ひとこと》世話を頼むとも言えずに子供を置いて逃出して来た嫂《あによめ》の前に自分を持って行って見た。何事《なんに》も知らずに住慣れた郷里を離れて嫂と共に上京した祖母《おばあ》さんの前に自分を持って行って見た。それから、それらの人達の集っている中で、もう一度帰って行って
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