トしまった。それを思いやって、岸本は牧野と顔を見合せた。
「今僕の画室へ岡や小竹が集まっています」と牧野が言った。「どう慰めようもなくて僕等は困ってるところなんです。あなたにでも来て頂かなくちゃ――」
「僕なぞが君、出掛けて行ったところでどうすることも出来ないじゃないか」
 こう岸本は言ったものの、岡のことも心に掛って、呼びに来た牧野と一緒に下宿を出た。
 二人はポオル・ロワイアルの並木街を歩いて行った。暮の降誕祭《ノエル》前に、仏蘭西政府がボルドオから移って来た頃あたりから、町々はいくらかずつの賑《にぎや》かさを増して来たが、しかしまだまだ淋《さび》しかった。戦争が各自の生活に浸潤して行く光景は、特に黒い喪服を着け黒い紗《しゃ》を長く垂下《たれさ》げて歩く婦人の多くなったことを取りたてて言うまでもなく、二人はそれを町で行き逢ういかなる人の姿にも読むことが出来た。汚《よご》れた顔の子供にも、荷馬車に石炭を積んで巨大《おおき》な馬を駆って行く男にも、子供の手を引き腰掛椅子を小脇《こわき》に擁《かか》えながら公園の方へ通う乳母《うば》にも、鳥打帽子を冠《かぶ》った年若な労働者にも、小犬を連れたお婆さんにも、赤い花や桜の実の飾りのついた帽子を冠り莫迦《ばか》に踵《かかと》の隆《たか》い靴を穿《は》き人の眼につく風俗をしてその日の糧《かて》を探し顔な婦人にも。
 天文台前の広場まで行くと、二人は十七八歳ばかりの青年の一群にも遭遇《であ》った。それらの青年は皆学生であった。普通の服に革帯《かわおび》を締め、腕章《うでじるし》を着け、脚絆《ゲートル》を巻きつけ、銃を肩にし、列をつくって、兵式の訓練を受けるためにルュキサンブウルの公園の方へ行くところであった。中にはまだ若々しい聡明《そうめい》な面《おも》ざしのものも混っていた。
「あんな人達まで今に戦争に行くんでしょうか。僕等のことにしたら、短い袴《はかま》を穿《は》いて学校へ通ってる時分の年齢《とし》ですがなあ」
 二人はこんな言葉をかわしながら、いずれ国難に赴《おもむ》こうとしているような仏蘭西の若者達を見送った。
 過ぐる年に比べると並木の芽出もずっと後《おく》れた。プラタアヌの木なぞは未《ま》だ冬枯そのままであった。モン・パルナッスの並木街をノオトル・ダムの分院の前あたりまで歩いて行くと、その辺には漸《ようや》くマロニエの青い芽が見られた。
「もうそれでもマロニエの芽が見られるように成りましたね」
 牧野は岸本と並んで歩きながら言った。
「牧野君もよくあの画室に辛抱しましたね。なんだか今年の冬は特別に長いような気がしました」
 と岸本も足早に歩きながら答えた。彼の胸には逢《あ》いに行く岡のことや、自分の旅のことが往来した。
        百二十四
「君等は感心だ。よくそれでもお互に助け合うね」
 と岸本はパスツウルの通りまで歩いて行った頃に牧野の方を見て言った。
「僕のところへ来るモデルもそれを言いましたよ。『日本人は皆貧乏だ、そのかわり感心に助け合う、他《よそ》の国から来てるものには決してそういうことは無い』ッて」
 と牧野が答えて、自分の家の方へでも帰って行くように画室のある横町の方へ岸本を誘って行った。モン・パルナッスの停車場《ステーション》の裏側からその辺の並木のある通りへかけては、岸本に取っても通い慣れた道だ。巴里を囲繞《とりま》く城塞《じょうさい》の方に近いだけ、いくらか場末の感じもするが、それだけまた気が置けない。よく岸本が牧野の許《もと》へ自炊の日本飯を呼ばれに行って、葱《ねぎ》なぞを買いに出た野菜の店もその通りに見える。そこまで行くと画室も近かった。
 岡や小竹はビイルを置いた机を囲みながら牧野の帰りを待っていた。
「や。どうもお使御苦労さま」と小竹は牧野の方を見た。
「牧野、岸本さんも来たから、一緒に一ぱい遣《や》らんか」と岡も飲みさしたコップを前に置いて言った。
「ああ」
 牧野は主人役と女房役とを兼ねたという風で、何か款待顔《もてなしがお》に画室の隅《すみ》でゴトゴト音をさせていた。この光景《ありさま》を見たばかりでも岸本には「巴里村」の気分が浮んで来た。彼は岡と差向いに腰掛けた。岡は言葉も少かった。癖のように力を入れた肩と熱意の溢《あふ》れた額とに物を言わせ、小竹や岸本のためにビイルを注《つ》いだ。あだかも行く人を送るために互に盃《さかずき》を挙《あ》げようとするかのように。
「物の解《わか》った人が側に附いていながらこういう結果に成ったかと思うと、そればかりが僕には残念なんです」
 岡はそれを言った。
「岡君と僕の場合とを比べることも出来ないが――第一、岡君から見ると僕はずっと年も若かったし、境遇も違っていました。でも、互いに心を許したという点だけでは似てるかと思う。僕は死をもって争った。それでも行く人をどうすることも出来なかった。僕は自分の方から別離《わかれ》を告げましたよ――尤《もっと》も僕の場合には、先方《さき》に許婚《いいなずけ》の人がありましたがね」
 岸本は平素めったに口にしたためしも無いようなことを皆の前に言出した。
        百二十五
 岸本はこの仏蘭西の旅に上って来た時、神戸の旅館で思いがけなく訪ねて来てくれた二人の婦人に邂逅《めぐりあ》ったことを忘れずにいる。二十年の月日を置いて逢って見たあの人達はもう四十を越した婦人でも、二十年前に亡《な》くなった人は何時《いつ》までも同じ若さの女として岸本の胸に残っている。彼が岡や小竹を前に置いて思わず言出したのは、あの神戸で邂逅った婦人等の旧《ふる》い学友にあたる勝子のことであった。青木、市川、菅《すげ》、足立《あだち》――それらの友人と互いに青春を競い合うような年頃に、岸本はあの勝子に逢《あ》った。すべてまだ若いさかりの彼に取って心に驚かれることばかりであった。不思議にも、世に盲目と言われているものが、あべこべに彼の眼を開けてくれた。彼の眼は勝子に向って開けたばかりでなく、それまで見ることの出来なかった隠れた物の奥を読むように成った。彼は自分の身の周囲《まわり》にある年長《としうえ》の友達や先輩の心にまで入って行くことが出来たばかりでなく、ずっと遠い昔に情熱の香気の高い詩歌なぞを遺《のこ》した古人の生涯を想像し、誰しも一度は通過《とおりこ》さねば成らないような女性に対する情熱をそれらの人達の生涯に結び着けて想像するように成った。若い生命《いのち》がそこから展《ひら》けて行った。
 しかし彼の前に展けた若い生命とは、そう明るく楽しいばかりのものではなくて、寧《むし》ろ惨憺《さんたん》たる光景に満たされた。彼は自分の手から※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ放されて結局父親の命ずるままに他へ嫁いて行く勝子を見た。簡単に言えば、彼が貧しかったからである。彼は同じ年の若さであっても、今少し豊かな家に生れたならば彼女を引留め得べき多くの暗示を受けたことを忘れることが出来なかった。彼のささげ得るものとては、一片の心のまことに過ぎなかった。「わたしはお前を愛する、わたしの身体《からだ》はもう死んだも同じものだ、残るものは唯《ただ》お前を慕う心があるばかりだ」こう言いながら勝子は父親の手に引かれて行ってしまった。彼はそれを自分の身に経験したばかりでなく、彼の周囲にあった友人の場合にも経験した。市川のような賢い青年であっても、情人の姉なり親戚《しんせき》なりに経済上の安心を与え得なかったものは失敗した。そして日本橋|伝馬町《てんまちょう》の鰹節《かつおぶし》問屋に生れた岡見は成功した。この事実は彼の若い心に深い感銘を刻みつけた。愛の為《な》すなきを悟ったのは実にその時であった。
 小竹や牧野の楽しい笑声が岸本の前で起った。国の方に細君を残して置いて来たというこの二人の画家はわだかまりの無い笑声に紛らして、岡の心を慰めようとしていた。一切を葬る時が来たと言わぬばかりに腕組して考えている岡を見ると、岸本は若い時の自分を眼前《めのまえ》に見るという程ではないまでも、すくなくもそれに似よりの心持を起した――勝子がまだ生きている頃の彼と、岡とは、弟と兄ぐらいの年齢《とし》の相違であったから。
        百二十六
 若かった日のことを思い出すと同時にきまりで岸本の胸に浮んで来る青木の名は、よく彼の話に出るので、岡や牧野にも親しみのあるものと成っていた。彼はあの二十七歳ばかりで惜しい一生を終った友人の言葉を岡の前で思い出した。
「青木君がそう言いましたっけ。『この世にあるもので、一つとして過ぎ去らないものは無い、せめてその中で、誠を残したい』ッて。僕は岡君にあの言葉をすすめたいと思うね」
 こう岸本は岡の方を見て言った。日の暮れる頃まで彼はその画室で話した。その年の正月に巴里《パリ》にある心易《こころやす》い連中だけが集まって、葡萄酒《ぶどうしゅ》を置き、モデルに歌わせ、皆子供のように楽しい一夕《いっせき》を送った時の名残《なごり》は、天井の下の壁から壁へ渡した色紙も古びたままで、まだ牧野の画室に掛っていた。やがて岸本は辞し去ろうとした。牧野は町まで買物があると言って、岡のことを心配しながら岸本に随《つ》いて来た。
 牧野は町に出てから言った。
「今度という今度はさすがの岡も力を落したようですよ」
「まあ、さんざん哭《な》き給えとでも言うより外に仕方が無いね」と岸本も一緒に日暮方の歩道を踏みながら、「あの人のことだから、いずれ何かその中から掴《つか》んで来るでしょう」
「僕の妹を仮りにくれろと言われたところで、僕だって考えますよ。美術家同志というものはあんまり内幕を知り過ぎていて反《かえ》っていけない。妹にまで同じ苦労をさせようとは思いませんからね」
 こんな言葉をかわしながら歩いて、往きかう人の可成《かなり》にあるパスツウルの通りで岸本は牧野に別れた。
 マロニエの並木の芽も一息に延びそうな、何となく三月らしい日暮方であった。七時の夕飯まではまだ間があった。岸本は牧野の画室で引出された心持や、若い時分の友達のことや、それに連れて一緒に胸に浮んで来るあの勝子のことなぞを思いながら、底暖かい町の空気の中を自分の下宿の方へ帰って行った。
「今だに盛岡のことなぞをよく思い出すところを見ると、矢張《やはり》あの人には女らしい好いところが有ったんだナ」
 道すがら岸本はそれを言って見た。盛岡とは勝子の生れた郷里だ。伝馬町とか、西京とか、昔はよく市川や菅などと一緒になる度《たび》にはそんな符牒《ふちょう》が出たものだ。
 岸本が岡の落胆を思いやる心は、やがて勝子の結婚を聞いた時の昔の自分の心だ。確かにそれは若い時の彼に取って打撃であった。見知らぬ新婚の夫婦なぞを町で見かけたばかりでも彼の若い心は傷《いた》んだ。しかし勝子の死を聞いたことは、それよりも更に大きな打撃であった。彼女は結婚して一年ばかり経《た》った後、妊娠中のつわりとやらで、まだ女の若いさかりの年頃で亡《な》くなった。その話を聞いた時の彼には、何となくそこいらが黄色く見えて、往来の土まで眼前《めのまえ》で持上るかのようにすら感じられた。暗い月日がそれから続いた。多くの艱難《かんなん》も身に襲って来た。彼は自分の沮喪《そそう》した意気を回復するまでにどれ程の長い月日を要したかを今だによく想い起すことが出来る。
 仙台の旅はこうした彼の心を救った。一生の清《すず》しい朝はあの古い静かな東北の都会へ行って始めて明けたような気がした。しかし彼はもう以前の岸本では無かった。それから後になって彼が男女の煩《わずら》いから離れよう離れようとしたのも、自分の方へ近づいて来る女性を避けようとしたのも、そして自分|独《ひと》りに生きようとしたのも――すべては皆一生の中《うち》の最も感じ易《やす》く最も心の柔かな年頃に受けた苦《にが》い愛の経験に根ざしたのであった。
        百二十七
「青木君が亡くなってから、もう何年に成る 
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