エる助言者であった。彼はまた学校の作文でも書くように父へ宛てて書いたが、田辺の小父にそれを見せろと言われた時はよく顔が紅《あか》くなった。この田辺の家へ父が一度郷里の方から出て来た時のことは、岸本に取って忘れ難い記憶の一つであった。父は旅の毛布《ケット》やら荷物やらを田辺の家の奥二階で解《ほど》いて、そこで暫時《しばらく》逗留《とうりゅう》した。郷里に居る頃の父はまだ昔風に髪を束ねて、それを紫の紐《ひも》で結んで後の方へ垂《た》れているような人であったが、その旅で初めて散髪に成った話などした。「あれはああと、これはこうと――」そんなことを独語《ひとりごと》のように言っては、自分の考えを纏《まと》めようとするのが父の癖であった、父は旅の包の中から桐《きり》の箱に入った鏡なぞを取出した時に、「お父《とっ》さん、男が鏡を見るんですか」と彼の方で尋ねると、父は微笑《ほほえ》んで、鏡というものは男にも大切だ、殊に旅にでも来た時は自分の容姿を正しくしなければ成らないと話したこともあった。
 父は随分奇行に富んだ人で、到るところに逸話を残したが、しかし子としての彼の眼には面白いというよりも気の毒で、異常なというよりも突飛に映った。その上京で殊に彼はそれを感じた。父は彼の学校友達の家へも訪《たず》ねて行こうと言出したことがあった。三十間堀の友達の家には、友達の母親が後家で子供達を育てていた。そこへ彼は父を案内して行った。父の為《す》ることは唯《ただ》少年の彼には心配でならないようなものであった。学校友達の家へ訪ねて行くと、先方《さき》でも大変喜んでくれたが、別れ際《ぎわ》に父は友達の母親から盆を借りて土産《みやげ》ばかりに持って行った大きな蜜柑《みかん》をその上に載せた。それを友達の母親の方へ差出すことかと彼が見ていると、父はそうしないで、いきなりその蜜柑を仏壇へ持って行って供えた。こうした父の行いが少年の彼の眼には唯奇異に思われた。彼は父の精神の美しいとか正直なとかを考える余裕はなかった。何がなしにその学校友達の家を早く辞して田辺の方へ父を連れ帰りたいとのみ思った。その時の彼の心では、久し振《ぶり》で父と一緒に成ったことを悦《よろこ》ばないではなかったが、矢張《やはり》郷里の山村の方に父を置いて考えたいと思った。一日も早く父が東京を引揚げ、あの年中|榾火《ほたび》の燃えている炉辺の方へ帰って行って、老祖母《おばあ》さんや、母や、兄夫婦や、それから年とった正直な家僕なぞと一緒に居て貰いたいと思った。後になって考えると、それが彼の上京後唯一度の父子の邂逅《めぐりあい》であったのである。それぎり彼は父を見なかった。

        百十六

 岸本が父を知るように成ったのは、寧《むし》ろ父が亡くなってからの後のことであった。漸《ようや》く彼が青年期に入って彼自身の遽《にわ》かな成長を感じ始めた頃、郷里の方にある老祖母さんの死去を聞いて一度帰省したことがある。民助兄もその頃は既に東京で、彼は兄の代理として老祖母さんを弔いかたがた郷里に留守居する母や嫂の方へ帰って行った。その時、彼は久しぶりで自分の生れた家を見たばかりでなく、父の遺《のこ》した蔵書を見せようと云う母の後に随《つ》いて裏庭の方へ出た。母屋《おもや》の横手から土蔵の方へ通う野菜畑と桑畑《くわばたけ》の間の径《みち》、老祖母さんの隠居所となっていた離れの二階座敷、土蔵の前に植てある幾株かの柿の木、それらは皆な極《ごく》幼い頃に見たと変らずにあった。母は暗い金網戸の閉った土蔵の石段の上に立って、手にした大きな鍵《かぎ》で錠前をガチャガチャ言わせ、やがて彼を二階の方へ案内した。そこに老祖母さんの嫁に来た時の長持が残っている。ここに母の長持が置いてある。それらの古い道具を除いては、土蔵の二階にあるものは父の遺した沢山な書籍《ほん》であった。壁によせて積重ねてある古い本箱からは主として国学に関する書籍が出て来た。それを見て、彼は自分の父がどれ程あの古典派の学説に心を傾けたかを感知した。彼が英学を修め始めた時はまだ父は生きていて、非常に心配した手紙をくれたが、あの父の心持も思い当った。
 その頃から彼は一層よく父を知ろうとするように成った。父に関したことは、いかなる小さな話でも心に留めて置こうとした。折ある毎《ごと》に彼は身内のものや父を知っている人達に父のことを尋ねた。民助兄にも。義雄兄にも。田辺の小父にも。田辺のお婆さんにも。そして、それらの人達の記憶に残るきれぎれな話から父の生涯を想像しようとした。意外にも彼は人から聞いた話よりも、彼自身の内部《なか》に一層よく父を見つけて行った。彼は自分の内部から押出すようにして延びて来る生命《いのち》の芽が、一切の物の色彩を変えて見せるような憂鬱な世界の方へ自分を連れて行く度に、特にそれを感じた。彼は年とれば年とる程、自分の性質が父に似て行くことを驚き恐れた。仙台の旅から帰ったのは彼が二十六歳の頃であった。彼は一夏を郷里の鈴木の姉の家に送って、あの姉の口から父の声を聞きつけたことも有った。「捨吉は俺《おれ》の子だで、あれは学問の好な奴だで、どうかして俺の後を継がせたいものだなんて、お父《とっ》さんがよくそう仰《おっしゃ》ったぞや」と姉は郷里の訛《なまり》のある調子でそれを彼に話し聞かせた。その頃は鈴木の兄も郷里の家に暮して、最も得意な月日を送っていた。姉に取っても楽しい時であった。姉は久しぶりで一緒になった弟を前に置いて、夫に向って、「まあ、捨吉の坐っているところを見てやって下さい、あれの手なぞはお父さんに彷彿《そっくり》です」と話して笑った。その時彼は自分の身体の中に父の手までも見つけた。尤《もっと》も、父は足袋《たび》なぞも図無《ずな》しを穿《は》いたと言われる方で、彼の幼い記憶に残るのは彼よりもずっと背の高い人であったが。

        百十七

 父の憂鬱《ゆううつ》は矢張岸本と同じように青年時代に発したということである。岸本が同年配の他の青年の知らないような心の戦いを重ねたのもその憂鬱の結果であったが、しかし彼は狂《きちがい》じみたという程度に踏みこたえた。父のは、それが本物であった。
 こうした父の持病は一生を通して父を苦しめたとは言え、しかし岸本は父にも健《すこや》かな月日の多かったことを想像することが出来る。その証拠には、父は平田|篤胤《あつたね》の門人であったというし、維新の際には家を忘れて国事に奔走したというし、飛騨《ひだ》の国にある水無《みなし》神社の宮司にもなったというし、それから郷里に退いて晩年を子弟の教育に送ったともいうことである。今は台湾の方で民助兄と一緒に暮している嫂が父の日常のことをよく知っていて、曾《かつ》て東京の根岸の家でその話を岸本にして聞かせたことも有った。「お父さんの癇《かん》の起らない時には、それは優しい人でしたよ。子供に灸《きゅう》一つすえられないような人でしたよ」と嫂は話してくれた。
 この嫂を通して、岸本は父が最後に座敷牢《ざしきろう》で送った日のことを聞いた。幻を真《まこと》と見る父の感覚は眼に見えない敵のために悩まされるように成って行った。「敵が攻めて来る。敵が攻めて来る」と父はよく言ったとか。その恐ろしい幻覚から、終《しまい》には父は岸本家の先祖が建立《こんりゅう》したという村の寺院《おてら》の障子へ火を放とうとした。それが父の牢獄にも等しい部屋の方へ趨《おもむ》く最初の時であった。日頃柔順な子として聞えた民助兄も余儀なく父の前に立って、御辞儀一つして、それから村の人達と一緒に父を後手に縛りあげた。父のために造った座敷牢は裏の木小屋にあった。そこは老祖母さんの隠居部屋と土蔵の間を掘井戸について石段を下りて行ったところにあった。前には古い池があり、一方は米倉に続き、後には岸本の家に附いた竹藪《たけやぶ》が茂っていた。そこで父は最後の暗い日を送った。母は別室に居て父の看護を怠らなかったばかりでなく、日頃父のことを「お師匠様」と呼ぶ村の人達まで昼夜交代で詰めていたということである。
 嫂の話は父が座敷牢で暮した頃の細目《さいもく》を伝えたが、鈴木の姉はまた父の感情を伝えた。姉は最早家出をした夫と別れ住む頃であった。郷里から一寸《ちょっと》出て来て、東京浅草の方にあった岸本の家の二階でその話を弟にした。どうかすると父は座敷牢でも物を書きたいと言って、硯《すずり》や筆を取寄せ、「熊」という字を大きく一ぱいに紙に書いて人に見せたことも有った。そして自ら嘲《あざけ》るように笑って、終《しまい》にはもう腹を抱《かか》えて転《ころ》げるほど笑ったかと思うと、悲しげな涙がその後からさめざめと流れた。「きり/″\す啼《な》くや霜夜のさむしろに衣かたしき独《ひと》りかも寝む」――父はこの古歌を幾度《いくたび》となく口吟《くちずさ》んで見て、自分で自分の声に聞入るようにして、暗い座敷牢の格子《こうし》につかまりながら慟哭《どうこく》したという。「慨世憂国の士をもって発狂の人となす、豈《あ》に悲しからずや」とは父がその木小屋に遺《のこ》した絶筆であったという。父は最後に脚気《かっけ》衝心でこの世を去った。

        百十八

 それから鈴木の姉の上京後、まだ園子の達者でいた時分、岸本は父の墓を建てるために一度帰省したこともある。その時は郷里の鈴木の家に姉を見に立寄り、あれから木曾川に添うて十里ばかり歩いた。郷里とは言っても、岸本があの谿谷《たに》の間の道を歩いて見たことは数えるほどしか無かった。通る度毎《たびごと》に旧《ふる》い駅路の跡は変っていた。母の生れた村まで行くと、古い大きな屋敷は最早見られなかったが、そこには義雄兄の留守宅があって、節子の母親が祖母さんと二人で子供を相手に暮していた。深い谿谷の地勢はそのあたりで尽きて、山林の間の坂の多い道を辿《たど》って行ったところに岸本の村がある。遠い先祖の建立したという寺には岸本の家についた古い苔蒸《こけむ》した墓石が昔を語り顔に並んでいた。岸本は岡の傾斜のところに造られた墓地を通りぬけて、杉の木立の間から村の一部の望まれるような位置へ出た。二つの墳《つか》が彼の眼に映った。そこに両親が眠っていた。
 村には父の教を受けたという人達がまだ多く住んでいた。日頃岸本の家と懇意な隣家の酒屋の主人もその一人だ。その人に誘われて、眺望《ちょうぼう》の好い二階座敷に上って見ると、一段高い石垣の上の位置から以前の屋敷跡が眼の下に見えた。村の大火は岸本の父の家を桑畠に変えた。母屋も、土蔵も最早見られなかった。何となく時雨《しぐ》れて来た空の下には、桑畠の間に色づいた柿の葉の枝に残ったのが故郷の秋を語っていた。岸本は隣家の主人と一緒にその桑畠を指して、そこに父の書院があった、そこに父の愛した古い松の樹があった、と語り合った。家を挙《あ》げて東京に移り住むように成った頃から、以前の屋敷跡は矢張隣家の所有であったから、岸本は酒屋の主人の許しを得て独りで裏づたいに桑畠の間に出て見た。甘い香気《におい》のする柿の花の咲くから、青い蔕《へた》の附いた空《むだ》な実が落ちるまで、少年の時の遊び場所であった土蔵の前あたりの過去った日の光景はまだ彼の眼にあった。父の遺した蔵書を見るために母と一緒に暗い金網戸の前の石段に立った日のことなぞもまだ彼の眼に残っていた。亡《な》くなった老祖母さんの隠居所であった二階座敷から、裏の方へかけて、あの辺だけが僅に焼残っていて、岸本は変らずにある木小屋を見ることが出来た。台湾の方へ行った嫂が話してくれたのも、その小屋のことだ。前にある高い石垣、古い池、後に茂る深い竹藪《たけやぶ》は父の侘《わび》しい暗い最後の月日を想像させた。

        百十九

 すべてこれらの父に関する記憶が旅にある岸本の胸に纏《まと》まって来た。早く父に別れた彼は多くの他の少年が享《う》け得るような慈愛もろくろく享けず仕舞《じまい》であった。そのかわりまた大きくなって
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