ま》えるつもりもなく捉えようとして、谷川の石の間を追廻すうちに、何時《いつ》の間にか彼の手にした洋傘《こうもり》は小鳥の翼を打ったことがある。何かに追われたか、病んでいるか、いずれ訳があって飛去りもしない小鳥を傷つけたと気がついた時はもう遅かった。血にまみれながら是方《こちら》を見た時の眼は小鳥ながらに恐ろしく、その小さな犠牲を打殺すまでは安心しなかったことがある。そして半町ばかりも歩いて城址に近い鉄道の踏切のところへ出た頃に、手にした洋傘の柄の折れていたのに気がついたことがある。丁度あの小鳥の眼が、想像で描いて見る節子の眼だ。可傷《いたいた》しい眼だ。鋭いナイフで是方《こちら》の胸を貫徹《つきとお》さずには置かないほどの力を有《も》った眼だ。
一度犯した罪は何故こう意地悪く自分の身に附纏《つきまと》って来るのだろう、と岸本は嘆息してしまった。仏蘭西《フランス》の詩人が詩集の中に見つけて置いた文句が彼の胸に浮んだ。
"Que m'importe que tu sois sage,
Sois belle et sois triste……"
分別ざかりの叔父の身で自分の姪《めい》を無垢《むく》な処女《おとめ》の知らない世界へ連れて行ったような心の醜さは、この悲痛な詩の一節の中にも似よりを見出すことが出来る。あの北極の太陽に自己《おのれ》が心胸《こころ》を譬《たと》え歌った歌、岸本が東京浅草の住居《すまい》の方でよく愛誦《あいしょう》した歌を遺《のこ》して置いて行ったのも同じ仏蘭西の詩人である。岸本はそうした頽廃《たいはい》した心を有《も》った人が極度の寂寞《せきばく》を感じながら曾《かつ》てこの世を歩いて行ったことを想って見た。その人の歌った紅《あか》くしてしかも凍り果《はつ》るという太陽は北極の果を想像しないまでも、暗い巴里の冬の空に現に彼が望み見るものであることを想って見た。
町に出て、岸本は節子のために彼女の煩い苦しんでいるという手の薬を探し求めた。子供等へ送るつもりで買って置いた仏蘭西風の黒い表紙のついた手帳と一緒にして、帰朝する人でもある折にそれを托《たく》そうと考えた。こうした心づかいも、よくよく不幸な節子のような姪がこの世に生きながらえていると思うことをどうすることも出来なかった。その悩ましさは、折角《せっかく》リモオジュの田舎の方で回復した新しい旅の心に掩《おお》い冠《かぶ》さって来た。
百十二
濃い霧で町の空も暗い日が続いた。時としては町々の屋根に近い空の一部に淡黄な光のほのめきを望み、時としてはめずらしく明るく開けた空に桃色の雲の群を望むような日があっても、復《ま》た復た暗く閉じ籠《こ》められた心持で暮しがちであった。戦時の寂しい冬らしく万物は皆な凍り果てた。寒い雨の来る晩なぞは、岸本は遠く離れている友人等の名前を呼んで見たいと思うことすら有った。彼は東京の加賀町の友人から絵葉書のはしに書いてよこしてくれた「|寂寞懐[#レ]君《せきばくきみをおもう》」という言葉なぞを胸に浮べながら、窓に行って眺《なが》めた。
六頭の馬に挽《ひ》かれた砲車の列が丁度その町を通った。一砲車|毎《ごと》に弾薬の函《はこ》を載せた車が八頭の馬に挽かれてその後から続いた。街路に立って見る市民の中には一語《ひとこと》熱狂した叫び声を発するものもなかった。いずれも皆静粛な沈黙を守って馬上の壮丁を見送るもののみであった。戦時の空気はそれほど濃い沈鬱《ちんうつ》なものと成って来ていた。岸本は水を打ったようにシーンとしたこの町の光景を自分の部屋から眺めて、数月前よりは反《かえ》って一層胸を打たれた。彼はリモオジュから帰って来てから以来《このかた》、一日は一日よりこの空気の中へ浸って行った。激しい興奮と動揺との時は過ぎて、忍耐と抑制との時がそれに代っていた。
岸本は自分の部屋を見廻した。戦争以前よりはもっと濃い無聊《ぶりょう》がそこへやって来ていた。
「ああ、復た始まった」
とそれを思うにつけても、よく目的《めあて》もなしに町々を歩き廻り、寄りたくもない珈琲店《コーヒーてん》へ行って腰掛けたりするより外に時の送りようの無いような、その同じ心持が復た繰返し起って来ることを忌々《いまいま》しく思った。窓から射《さ》して来ている灰色な光線は、どうかすると暗い部屋の内部《なか》を牢獄《ろうごく》のように見せた。周囲が冷い石で繞《かこ》われていることもその一つである。寝る道具から顔を洗う道具から便器まで室内に具《そな》えつけてあることもその一つである。親戚《しんせき》や友人や子供等から全く離れていることもその一つである。訪れるものも少なく、よし有っても故国の食物の話や女の話なぞに僅《わず》かに徒然《つれづれ》を慰め合うのもその一つである。全く外界に縁故の無いのもその一つである。信じ難いほどの無刺戟《むしげき》もその一つである。到底行い得べくも無いような空想に駆《か》らるるのもその一つである。のみならず岸本は自分で自分の鞭《むち》を背に受けねば成らなかった。心に編笠《あみがさ》を冠る思いをして故国を出て来たものがこの眼に見えない幽囚は寧《むし》ろ当然のことのようにも思われた――孤独も、禁慾も。
百十三
この侘《わび》しい冬籠りの中で、岸本の心はよく自分の父親の方へ帰って行った。しきりに彼は少年の頃に別れた父のことが恋しくなった。異郷の客舎に居て前途の思いが胸に塞《ふさ》がるような折には、彼は部屋の隅《すみ》にある寝台に身を投げ掛けて白いレエスの上敷に顔を埋めることも有った。例のソクラテスの死をあらわした古い額の掛った壁の側で、この世に居ない父の前へ自分を持って行き、父を呼び、そのたましいに祈ろうとさえして見た。あだかも父に別れたままの少年の時のような心をもって。
岸本の父は故国の山間にあって三百年以上も続いた古い歴史を有《も》つ家に生れた人であった。峠一つ越して深い谿谷《たに》に接した隣村《となりむら》には、矢張《やはり》同姓の岸本を名乗る家があった。その家が代々、あるいは代官、あるいは庄屋、あるいは本陣、あるいは問屋の職をつとめたことは、岸本の父の家によく似ていた。その家から岸本の母は嫁《かたづ》いて来た。義雄兄はまた幼少の時《ころ》から貰《もら》われて行ってその母方の家を継いだ。義雄兄の養父――節子から言えば彼女の祖父《おじい》さんは、岸本が母の実の兄にあたっていた。岸本が父母の膝下《ひざもと》を離れ、郷里の家を辞して、東京に遊学する身となったのは漸《ようや》く九歳の時であった。十三歳の時には東京の方に居て父の死を聞いた。彼は父の側に居て暮した月日の短かったばかりでなく、母のいつくしみを受ける間もまた短かった。彼がしみじみ母と一緒に東京で暮して見たのは艱難《かんなん》な青年時代が来た頃であって、しかも僅かに二年ほどしか続かなかった。彼は仙台の方へ行っている間に母の死を聞いた。
これほど岸本は父のことに就《つ》いて幼い時分の記憶しか有たなかった。四十四歳の今になって、もう一度その人の方へ旅の心が帰って行くということすら不思議のように思われた。半生を通して繞《めぐ》りに繞った憂鬱《ゆううつ》――言うことも為《な》すことも考えることも皆そこから起って来ているかのような、あの名のつけようの無い、原因の無い憂鬱が早くも青年時代の始まる頃から自分の身にやって来たことを話して、それを聞いて貰えると思う人も、父であった。何故というに、岸本の半生の悩ましかったように、父もまた悩ましい生涯を送った人であったから。仮りに父がこの世に生きながらえていて、自分の子の遠い旅に上って来た動機を知ったなら何と言うだろう……けれども、岸本が最後に行って地べたに額を埋《うず》めてなりとも心の苦痛を訴えたいと思う人は父であった。
百十四
「ちゝはゝの
しきりにこひし
雉子《きじ》の声」
岸本の胸に浮ぶはこの句であった。この短い言葉の蔭に隠されてある昔の人の飄泊《ひょうはく》の思いもひどく彼の身に浸《し》みた。何時来るかも知れないような春を待侘《まちわ》び、身の行末を案じ煩《わずら》うような異郷の旅ででもなければ、これほど父の愛を喚起《よびおこ》す事もあるまいかと思われた。幼い時の記憶は遠く郷里の山村の方へ彼を連れて行って見せた。広い玄関がある。田舎風の炉辺《ろばた》がある。民助兄の居る寛《くつろ》ぎの間《ま》がある。村の旦那衆《だんなしゅう》はよくそこへ話し込みに来ている。次の間があり、中の間がある。母や嫂がその明るい光線の射し込む部屋で針仕事をひろげている。遠い山々、展《ひら》けた谷、見霞《みかす》むように広々とした平野までも高い山腹にある位置からその部屋の障子の外に望まれる。坪庭の塀《へい》を隔てて石垣の下の方には叔母の家の板屋根なども見える。奥の間がある。上段の間がある。一方には古い枝ぶりの好い松の木や牡丹《ぼたん》なぞを植えた静かな庭に面して、廂《ひさし》の深い父の書院がある。それが岸本の生れた家だ。
岸本は赤い毛氈《もうせん》を掛けた父の机の上に父の好きな書籍や、時には和算の道具などの載せてあったことを記憶でまだありありと見ることが出来た。よく肩が凝るという父の背後《うしろ》へ廻って、面白くも可笑《おかし》くもない歴代の年号などを暗誦《あんしょう》させられながら、「享保《きょうほ》、元禄《げんろく》……」とまるで御経でもあげるように父の肩につかまって唱えたり叩《たた》いたりしたあの書院の内を記憶でまだ見ることも出来た。夜遅くまで物書く父の側に坐らせられ、部屋一ぱいにひろげた白紙の前で、眠い眼をこすりこすり持たせられたあの蝋燭《ろうそく》の火を記憶でまだ見ることも出来た。
父は厳格で、子供の時の岸本が父の膝《ひざ》に乗せられたという覚えも無いくらいの人であった。父は家族のものに対して絶対の主権者であり、岸本等に対しては又、熱心な教育者であった。岸本は学校の書籍《ほん》を習うよりも前に、父が自身で書いた三字文を習い、村の学校へ通うように成ってからは大学や論語の素読を父から受けた。彼はあの後藤点《ごとうてん》の栗色の表紙の本を抱いて、おずおずと父の前へ出たものであった。何かというと父が話し聞かせることは人倫五常《じんりんごじょう》の道で、彼は子供心にも父を敬《うやま》い、畏《おそ》れた。殊《こと》に父が持病の癇《かん》でも起る時には非常に恐ろしい人であった。岸本は末子《すえっこ》のことでもあり年齢《とし》もまだちいさかったから、それほどの目にも逢《あ》わなかったが、どうかすると民助兄なぞは弓の折《おれ》で打たれた。有体《ありてい》に言えば、少年の岸本に取っては、父というものはただただ恐いもの、頑固《がんこ》なもの、窮屈で堪《たま》らないものとしか思われなかった。
百十五
少年の時の記憶はまた東京銀座の裏通りの方へ岸本を連れて行って見せた。土蔵造りの家がある。玄関がある。往来に面して鉄の格子《こうし》の嵌《はま》った窓がある。日の光は小障子を通して窓の下の机や本箱の置いてあるところへ射し入っている。そこが岸本の上京後、小父夫婦やお婆さんの監督の下に少年の身を寄せていた田辺の家だ。
父から餞別《せんべつ》に貰った五六枚ほどの短冊《たんざく》、上京後の座右の銘にするようにと言って父があの几帳面《きちょうめん》な書体で書いてくれた文字、それを岸本はまだありありと眼に浮べることが出来た。少年の彼は窓の下の本箱の抽斗《ひきだし》の中にその座右の銘を入れて置いて、時には幾枚かある短冊を取出して見た。「行いは必ず篤敬……」などとしてある父の手蹟《しゅせき》を見る度に、郷里の方に居る厳《きび》しい父の教訓を聞く気がしたものであった。覚束《おぼつか》ないながらも岸本が郷里へ文通するように成ってから、父はよく彼の許《もと》へ手紙をくれた。彼の上京後も父は断え
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