ないと言われる中にあって、倫敦《ロンドン》へと志した人々があるいはアーヴル経由か、あるいはブルタアニュのサン・モアかと、戦乱を避け惑《まど》うた光景がその報告で想像された。市街の夜の燈火が悉《ことごと》く消され、ブウロンニュの森には牛、豚、羊の群が籠城の食糧の用意に集められたという巴里を美術家仲間で最終に去ったのは岡と今一人の彫刻家であったらしいことをも知った。在留した同胞の殆《ほと》んどすべては既に巴里を去ったことをも知った。
リオン行の美術家仲間からも汽車旅の混雑と不安とを岸本の許《もと》へ知らせて来た。それで見ると、車掌さえ行先を知らない列車に幾度か乗換え六箇所の停車場で三時間あるいは六時間を待ち都合四十時間もかかって漸《ようや》くリモオジュからリオンに辿《たど》り着くことが出来たとしてあった。岸本等の宿へは、主婦《かみさん》の姉の娘夫婦にあたる人達が巴里から避難して来た。この人達は岸本等が七時間で来たリモオジュまでの汽車旅に三十時間を費したと話した。巴里ばかりでなく北の国境の方からの多数な避難者の群は荷物列車にまで溢《あふ》れているとの話もあった。
「僕等はまだ好いとしても、独逸の方に居た連中はさぞ困ったろうね――」
と岸本は隣室の牧野を見る度《たび》に言い合った。仏独国境の交通断絶以来全く消息を知ることの出来なかった伯林《ベルリン》の千村教授や、ミュウニッヒの慶応の留学生が倫敦《ロンドン》に落ち延びたことも分って来た。欧羅巴へ来てから岸本が知るように成った同胞の多くは皆戦争の為にちりぢりばらばらに成ってしまった。
前途のことは言うことが出来なかった。しかし岸本と牧野とは宿の人達の厚意で比較的安全な位置に身を置くことが出来た。主婦は岸本のために何処《どこ》からか机を借りて来て、それを二階の部屋の窓の側に置いてくれた。蔓《つる》の延びて来ている葡萄棚《ぶどうだな》を越して窓の外にはバビロン新道が見えた。岡の地勢を成した牧場はその新道まで迫って来ていて、どうかすると赤い崖《がけ》の上へ来る牛の顔が窓の硝子《ガラス》に映った。
九十七
大風の吹き去った後のような寂しさはこの田舎にもあった。働き盛りの男子は皆|畠《はたけ》や牧場を去り、馬は徴発され、小屋も空《むな》しくなり、陶器の工場も閉《とざ》され、商家も多く休み、中学や商業学校の校舎まで戦地の方から送られて来る負傷兵のための収容所となっていた。岸本の眼に触れるものは何一つとして戦時らしい田舎の光景でないものは無かった。野菜畠には戦地にある子を思い顔な老人が耕していた。麦畠には婦女《おんな》の手だけで収穫《とりいれ》の始末をしようとする人達が働いていた。
ヴィエンヌ河の岸に沿うて高く立つサン・テチエンヌ寺への坂道の角には、十字を彫り刻んだ石の辻堂《つじどう》がある。香華《こうげ》を具《そな》えた聖母マリアの像がその辻堂の中に祠《まつ》ってある。体縮み脊髄《せぼね》の跼《くぐま》った老婆が堂の前で細長い蝋燭《ろうそく》を売っている。その蝋燭の日中に並び点《とぼ》る火影《ほかげ》には、黒い着物のまま石段の上にひざまずいて、戦地にある人のために無事を祈ろうとするような年若な女も居た。
従軍の志望を果さなかった岸本はこのリモオジュの町はずれへ来てから、巴里の方で見聞《みきき》した開戦当時の光景や、在留する同胞の消息や、牧野等と一緒にあの都を立退くまでの籠城の日記とも言うべきものを書いて故国に居て心配する人達のために報告を送ろうとした。時々彼は筆を措《お》いて家の周囲《まわり》を歩き廻った。梨《なし》、桃は既に熟し林檎《りんご》の実もまさに熟しかけている野菜畠の間を歩いても、紅《あか》い薔薇《ばら》や白い夾竹桃《きょうちくとう》の花のさかんに香気を放つ石垣の側を歩いても、あるいはこのあたりに多い羊の群の飼われる牧場の方へ歩き廻りに行っても、彼は旅らしい心地《こころもち》を味《あじわ》うに事を欠かなかった。そういう折には彼はよく主婦の甥子《おいご》に当るエドワアルをも伴った。
「ムッシュウなんて彼《あれ》のことを御呼びに成らないで、エドワアルと呼捨になすって下さい。あれはまだほんの子供ですから」
と主婦は十六ばかりになる少年を前に置いて言ったが、牧野も岸本も相変らず「ムッシュウ、ムッシュウ」と呼んで土地の事情に精《くわ》しいその少年を朝晩に相手とした。牧野は近くにある牧場を選んで画作に取りかかった。そこへ岸本が歩いて行って見る度に、必《きっ》と牧野の後に足を投出して眼前《めのまえ》の風景と画布《カンバス》とを見比べているエドワアルを見つけた。岡の地勢を成した牧場の内《なか》の樹木から遠景に見えるリモオジュの町々、古い寺院の塔などが牧野の画の中に取入れられてあった。牛の踏みちらした牧場の草地へはところどころに白い鶏の来るのも見えた。岸本がそこへ行って草を藉《し》き足を投出して見た時は、あの四時間も五時間も高瀬と一緒に警察署の側《わき》に立ちつづけたような巴里の混乱から逃《のが》れて来たというばかりでなく、仏蘭西の旅に来てからの初めての休息らしい休息をそのヴィエンヌの河畔に見つけたように思った。
九十八
二月《ふたつき》近く静かな田舎に暮して見ると、欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》のことばかりでなく、国を出た当時のことまでが何となく岸本の胸に纏《まと》まって来た。彼はそう思った。仮りに人生の審判があって、自分もまた一被告として立たせらるるという場合に当り、いかなる心理を盾《たて》として自己《おのれ》の内部《なか》に起って来たことを言い尽すことが出来ようかと。何物を犠牲にしても生きなければ成らなかったような一生の危機に際会したものが、どうして明白な、条理《すじみち》の立った、矛盾の無い、道理に叶《かな》ったことが言えよう。長い限りの無い悪夢にでも襲われたようにして起って来た恐怖――親戚《しんせき》や友人に対してさえ制《おさ》えることの出来なかった猜疑心《さいぎしん》――眼に見えない迫害の力の前に恐れ戦《おのの》いた彼のたましい――夢のように急いで来た遠い波の上――知らない人の中へ行こうとのみした名のつけようの無い悲哀――何という恐ろしい眼に遭遇《であ》ったろう。何という心の狼狽《ろうばい》を重ねたろう。何という一生の失敗だったろう。この深い感銘は時と共にますますはっきりとして来ることは有っても、薄らいで行くようなものでは無かった。しかし一時のような激しい精神《こころ》の動揺は次第に彼から離れて行った。不幸な姪《めい》に対する心地《こころもち》のみが残るように成って行った。その時になって彼は心静かに自分の行為《おこない》を振返って見た。どうかして生きたいと思うばかりに犯した罪を葬り隠そう葬り隠そうとした彼は、仮令《たとえ》いかなる苦難を負おうとも、一度姪に負わせた深傷《ふかで》や自分の生涯に留めた汚点をどうすることも出来ないかのように思って来た。彼は自分を責めれば責めるほど、涙ぐましいような気にさえ成った。
その心で、岸本は田舎家の裏にある野菜畠へ行った。一すじの小径《こみち》を中央にして両側に果樹の多く植てある畠の中を歩いて見た。そこは牧野とも一緒によく休みに来て、生《な》っている桃を枝から直《す》ぐにもぎ取っては味ったり、土の香気《におい》を嗅《か》ぎながら歩き廻ったりするところであった。最早《もう》十月下旬の季節が来ていた。枝にある仏蘭西の青梨は薄紅《うすあか》く色づいたのが沢山生り下っていたばかりでは無く、どうかすると熟した果実《くだもの》は秋風に揺れて、まるで石でも落ちるように彼の足許《あしもと》へ落ちるのもあった。
その畠は一方は町はずれの細い抜道に接し、他の一方は田舎風の赤い瓦屋根《かわらやね》の見える隣家の裏庭に続いていた。岸本は木の靴なぞを穿《は》いて通る人の足音を一方の抜道の方に聞き、野菜畠の中から伝わって来る耕作の鍬《くわ》の音を一方の裏庭の方に聞きながら、桃や梨の樹の間を歩いて新しい果実の香気《におい》を嗅ぎ廻った。あだかも成熟した樹木の生命《いのち》を胸一ぱいに自分の身に受納《うけい》れようとするかのように。
オート・ヴィエンヌの秋は何となく柔かな新しい心を岸本に起させた。彼は長い年月の間ほとほと失いかけていた生活の興味をすら回復した。仮令《たとえ》罪過は依然として彼の内部《なか》に生きているようなものであっても、彼はいくらか柔かな心でもって、それに対《むか》うことが出来るように成った。
九十九
四十日も要《かか》って来る郵便物がボツボツ届くように成ってから、岸本は戦時以来全く絶え果てた故国の消息をリモオジュの田舎に居て知る事が出来た。欧洲の戦乱はどんなに東京の方の留守宅の人達を驚かしたであろう。節子からもそれを心配した手紙をくれた。岸本は彼女や子供に宛てて記念の絵葉書を送る気に成った。仮令《たとえ》僅《わず》かの言葉でもこうして姪の許《もと》へ書くというのは、旅に来てからの岸本には珍らしいことであった。彼は姪へ送るためにサン・テチエンヌ寺の遠景に見える絵葉書を選び、泉太へ送るために羊の群の見える牧場のついた絵葉書を選んだ。前のはヴィエンヌ河の手前から取った風景で、樹木から道路から橋までが彼には既に親しみのあるものであり、遠く古い石塔の聳《そび》え立つ寺院《おてら》は弥撒《メス》などのある度《たび》によく彼の行って腰掛ける場処であった。後のは森を背景にした牧場のさまで、遠く森の間に一軒の田舎家も見えた。浅い谷間の草を食いに来る羊の群、その柔和な長い耳、細い足――そうしためずらしい仏蘭西の田舎の光景《ありさま》は国の方に留守居する子供等の眼を悦《よろこ》ばすであろうと思われた。すこし行けばツウルウズ街道(仏蘭西国道)に出られる彼の宿の周囲には、その絵葉書に見るような牧場が行先に展《ひら》けていた。
書いた葉書を投函《とうかん》するために岸本は宿を出た。日本人をめずらしがって煩《うるさ》く彼に附纏《つきまと》うた界隈《かいわい》の子供等も、二月ばかり経《た》つうちに彼を友達扱いにするものも多かった。ある町はずれまで行くと、そこには繩飛《なわと》びの仲間入を勧める小娘が集っていた。ポン・ナフという石橋の畔《たもと》まで歩いて行って見ると、そこには彼の側へ来て握手を求める男の児が居た。
「ムッシュウ」
と呼んでよくその児は走り寄って来た。その児は彼が外出する度に立寄っては腰掛ける橋畔の小さな珈琲店《コーヒーてん》の一人|子息《むすこ》であった。
ヴィエンヌ河はその石橋の下を流れていた。休息の時を送ろうとして岸本は水辺《みずべ》まで下りて行った。岸に並んで洗濯する婦女《おんな》の風俗などを見ても、田舎にある都会の町はずれとは思われないほど鄙《ひな》びたところであった。石の上で打つ砧《きぬた》の音も静かな水に響けて来た。しばらく岸本は戦争を外《よそ》に砧の音を聞いていた。その時、つと見知らぬ少年が彼の側へ来て声を掛けた。
「異人さん、すこし日本の方のことを聞かせて下さい」
見ると小学校の上の組の生徒か、あるいはこの町にある簡易な商業学校の下の組の生徒かと思われるほどの年頃の少年だ。
「仏蘭西と日本と何方《どっち》が奇麗でしょう。日本の方が仏蘭西よりはもっと奇麗でしょうか」
この少年の問は岸本を困らせた。
「そんなことが君、比べられるもんですか」と岸本が言った。「君の国だって奇麗なところも有り、そうで無いところも有るでしょう――僕等の国もその通りでさ」
「日本の海はどんな色でしょう」と復《ま》た少年が訊《き》いた。「黄色でしょうか」
「どうして君、青い色でさ――透明な青い色でさ――それは美しい海ですよ」
怜悧《りこう》そうな少年の瞳《ひとみ》に見入りながら岸本がそう答えると、少年はまだ見たことのない東洋の果を想像するかのように、
「透明な青い色か」と繰返し
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