のは早く去れ、独逸もしくは墺地利《オーストリア》以外の国籍を有するものは在留を許すとのことであった。この出来事につけても、従軍の志望がしきりに岸本の胸中を往来した。所詮《しょせん》国へは帰れないと思う心の彼は、進んで戦地の方へ出掛けたいと願ったが、身を苦めることばかり多くて思わしい通信を書くことも出来なかろう、と思い直しては自己《おのれ》を制《おさ》えた。戒厳令《かいげんれい》は既に布《し》かれ、巴里の城門は堅く閉され、旅行も全く不可能になった。事実に於《お》いて彼は早や籠城《ろうじょう》する身に等しかった。
九十三
到頭岸本は一年余の巴里を離れたいと思立つように成った。動員令が下ってから三週間あまりというものは何事《なんに》も手に着かなかった。昨日は白耳義《ベルジック》ナミュウルの要塞《ようさい》が危いとか今日は独逸軍の先鋒《せんぽう》が国境のリイルに迫ったとか、そういう戦報を朝に晩に待受ける空気の中にあっては、唯々《ただただ》市民と一緒に成って心配を分け、在留する同胞の無事な顔を見て互いに前途のことを語るの外は無かった。隣室の高瀬が柳博士と連立って英国|倫敦《ロンドン》へ向け戦乱を避けようとする際に、岸本も同行を勧められたが、彼はむしろ仏蘭西の田舎へ行くことにして、北の停車場で高瀬と手を分った。敵の飛行船が巴里に襲って来た最初の晩は眠られなかったという画家の小竹も、その一行に加わって八月の半には既に英吉利《イギリス》海峡を越えて行った。
岸本が知っている僅《わず》かの仏蘭西人の中でも、ビヨンクウルの書記はヴェルサイユの兵営の方にあり、ラペエの詩人は巴里の自動車隊に加わり、ブロッスの教授は戦地の方へ行った二人の子息《むすこ》の身の上を案じつつあった。ビヨンクウルの書記からは特に兵営から岸本の許へ手紙をくれ、われらは互いに同じ聯合軍《れんごうぐん》の側に立つと考えるのも嬉しいと書いてよこした。東京にある滝新夫人(老婦人の姪)からも夫と一緒に仏蘭西へ来遊の意を伝えて来たが、この戦争ではどうすることが出来ようと書いてよこした。岸本の隣室を借りて寝泊りしていた控訴院付の弁護士も何時《いつ》の間にか見えなくなった。例の「シモンヌの家」の珈琲店《コーヒーてん》の主人、下宿の家番の亭主、これらの人達までがいずれも戦地を指して出発した。
露西亜軍《ロシアぐん》が東独逸に入ったという戦報の伝わった日は、岸本は自分の部屋に居て荷造りに日を暮した。彼の下宿では半ば引越しの騒ぎをした。主婦《かみさん》も、主婦の姪《めい》も、彼よりは一日|前《さき》にリモオジュへ向けて発《た》って行った。一部の旅行が許されるように成ったので、彼も下宿の人達に誘われて主婦の郷里の方へ出掛けることにした。これを機会に仏蘭西の田舎をも見ようとした。戦争以来旅行も不自由になった。旅客一人につき三十キロ以上の手荷物は許されなかった。早くやって来るリモオジュの方の寒さを予想して彼は自分の両手に提げられるだけの衣類を鞄《かばん》に入れて持って行こうとした。書籍なぞは皆置捨てる思いをした。蝉《せみ》の声一つ聞かない巴里の町中でも最早何となく秋の空気が通って来ていた。部屋の壁に残った蠅《はえ》は来て旅の鞄に取付いた。
寂しい夕方が来た。岸本は独りぎりで部屋に残って、ともかくも一年余を遠い旅に暮したことを思い、消息の絶え果てた故国のことを思い、せめて巴里を去る前に短い便《たよ》りなりとも国の方の新聞|宛《あて》に書送ろうとして鞄の側に腰掛けて見ると、無暗《むやみ》と神経は亢奮《こうふん》するばかりで僅に東京の留守宅へ宛てた手紙を書くに止《とど》めてしまった。宵の明星の姿が窓の外の空にあった。時々その一点の星の光を見ようとして窓側《まどぎわ》に立つと、凄《すさま》じい群集の仏蘭西国歌を歌って通る声が街路《まち》の方に起った。夜の九時といえば町々は早《はや》寂しく、燈火の数も減り、饑《う》えた犬の鳴声が何となく彼の耳についた。この都会に残っている人達はどうなるだろう、婦女《おんな》はどんな目に逢うだろう、それを思うと普仏戦争の当時巴里の籠城をした人達は暗い穴蔵のような地下室に隠れて鼠《ねずみ》まで殺して食ったと言われているが、それと同じような日が復た来るだろうかとは、考えたばかりでも恐ろしいことであった。翌朝の早い出発を思って、彼はろくろく眠らなかった。
九十四
ドルセエの河岸《かし》の停車場《ステーション》から岸本は汽車で出掛けた。この田舎行には彼は牧野の外に巴里在留の三人の画家をも伴った。戦争は偶然にも巴里のような大きな都会の響からしばらく逃《のが》れ去る機会を彼に与えた。あの石造の街路を軋《きし》る電車と自動車と荷馬車との恐ろしげな響から。あの層々|相重《あいかさ》なる窮屈な石造の建築物《たてもの》から。あの人を弱くするような密集した群集の空気から。
同行五人の旅は汽車の中をも楽しくした。前の年の五月に岸本がマルセエユからリオンへ、リオンから巴里へと向った時は殆《ほと》んど夜中の汽車旅であったから、今度の車窓に映るものは初めて見るもののみのようであった。彼は仏蘭西中部の平坦《へいたん》な耕地、牧場、それから森なぞをめずらしく見て行った。オート・ヴィエンヌ州に近づくにつれて故国の方の甲州や信州地方で見るような高峻《こうしゅん》な山岳を望むことは出来ないまでも、一年余を巴里に送った身には久しぶりで地方らしい空気を吸うことが出来た。途中の停車場で負傷兵を満載した列車にも逢った。戦地の方から送られて来たそれらの負傷兵は白耳義《ベルジック》方面の戦いの激しさを事実に於いて語って見せていた。
七時間ばかりもかかって岸本は連《つれ》と一緒にリモオジュの停車場に着いた。丁度出征する軍人を見送るために町の人達が停車場の附近に集っている時で、生れて初めて日本人というものを見るかのような土地の男や女が右からも左からも岸本等の顔を覗《のぞ》きに来た。
一日先にこの田舎町へ着いていた巴里の下宿の主婦《かみさん》は停車場まで姪《めい》をよこしてくれた。主婦は姉にあたる人の家で牧野や岸本を待受けていてくれたが、まだ部屋の用意が出来なかった。岸本等は停車場前の宿屋でその日を送ることにした。食事にだけ来いと言って、夕方には主婦の甥子《おいご》が使に来たので、五人の一行は町はずれの家の方へ歩いて行った。日本人のめずらしい土地の子供等は後《あと》になり前《さき》になりしてぞろぞろ随《つ》いて来た。岸本が巴里から一緒にやって来た美術家の中には極《ごく》旅慣れた人も居た。あまりに土地の子供等が煩《うるさ》く随いて来て、どうかすると後方《うしろ》から駆け抜けるようにしては五人の顔を見ようとするので、その画家はわざと子供等の方へ大きな眼球《めだま》を突き付けながら、
「御覧」
と戯れて見せたこともあった。岸本等が着いたことはこれ程土地の人にはめずらしかった。入口の庭には葡萄棚《ぶどうだな》があり裏には野菜|畠《ばたけ》のあるような田舎風の家で、岸本は巴里の方から来た主婦や主婦の姪と一緒に成った。
「この一番|年長《としうえ》の方が岸本さんです。こちらは牧野さんと仰《おっしゃ》って矢張《やはり》巴里に来ていらっしゃる美術家です」
こんなことを言って、主婦は姉という人に岸本等を引合わせた。黒い仏蘭西風の衣裳《いしょう》を着けた背の低いお婆さんは物静かな調子で一々遠来の客を迎えた。
土地の子供の煩さかったことは、葡萄棚に近く窓のある食堂で岸本等が楽しい夕飯に有付《ありつ》いた時にも石垣の外から覗きに来るものがあるくらいであった。こうした場所にも関《かか》わらず、停車場前に戻り、そこに一夜を送って、サン・テチエンヌ寺の塔を宿屋の窓の外に望みながら朝霧の中に鶏の声を聞いた時は、実に彼は胸一ぱいに好い空気を呼吸することの出来る静かな田舎に身を置き得た心地《ここち》がした。
九十五
国を出て早や十五カ月ほどに成った。十五カ月とは言っても岸本に取っては随分長い月日であった。過ぐる十五カ月は三年にも四年にも当るように思われた。彼はもう可成《かなり》長い月日の間、故国を見ずに暮したように思った。その間、日頃親しかった人々の誰の顔を見ることも出来ず、誰の声を聞くことも出来ずに暮したように思った。彼は歩きづめに歩いてまで宿屋に辿《たど》り着くことの出来ない旅人のように自分の身を考えた。この仏蘭西《フランス》の田舎《いなか》へは彼は心から多くの希望《のぞみ》をかけて来た。何よりも彼の願いは、たましいを落着けたいと思うことであった。どうやらその願いが叶《かな》いそうにも見えて来た。「君はこんな田舎が好いのか。ここにはブルタアニュの海岸に見つけるほどの野趣も無いではないか。そうかと言って田舎の都会らしい潤いにすらも乏しいではないか。ここは思いの外、平凡な土地ではないか」こう巴里《パリ》から一緒に来た美術家の一人が彼に向って訊《き》いたくらいである。それにも拘《かかわ》らずサン・テチエンヌ寺の立つ高い岡の上に登ってあの古い寺院を背後《うしろ》にした眺望《ちょうぼう》の好い遊園の石垣の上から耕作と牧畜との地たるリモオジュの町はずれを眺《なが》めた日から、しみじみ欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》の旅のことが思われた。ヴィエンヌ河はその町はずれを流れていた。仏蘭西の国道に添うて架《か》けてある石橋、騾馬《らば》に引かせて河岸《かし》の並木の間を通る小さな荷馬車なぞが眼の下に見える。彼はその石垣の上からしばらく自分の宿とする田舎家までも見ることは出来なかったまでも、耕地の多い対岸の傾斜に並ぶ仏蘭西の田舎らしい赤瓦《あかがわら》の屋根を望むことは出来た。
仏国オート・ヴィエンヌ州、リモオジュ町、バビロン新道《しんみち》、そこが岸本の牧野と一緒に宿をとったところだ。彼は喇叭《らっぱ》を吹いて新聞を売りに来る女のあるような在郷臭《ざいごくさ》い町はずれへ来ていた。その家の二階に沈着《おちつ》いて三日目に、彼は巴里にある岡から手紙を受取って、非常に形勢の迫ったことを知った。急いで書いたらしい岡の手紙の中には、「巴里に帰ることを止《や》めらるべし、必ず」としてあった。巴里に在留する三人の美術家は英国へ逃《のが》れようとして不可能となったともしてあった。
九十六
岡からは牧野岸本両名|宛《あて》で同時に別の手紙が来た。
「到頭巴里|立退《たちの》きの幕と成った。既に仏蘭西政府は他へ移ったらしい。大使館でも昨夜書類の焼却などをやっていた。昨日午後|独逸《ドイツ》軍の飛行機が巴里市に六つの爆弾を落した。一つはガアル・ド・リオンに、一つは東の停車場に、一つはサン・マルタンの商店をこわした。最早《もはや》巴里包囲は免れぬらしい。敵の騎兵《きへい》は八十キロメエトルの処まで来ている。昨夜一同集合して最終の相談をして、今日の具合で英国へ渡れなければリオンに一同出発する。今日の中にはとにかく巴里を出る。かかる訳で君等の荷物も、無論|吾儕《われわれ》のもそのまま置捨てることにした。ああ巴里も、わが巴里も、遂《つい》に独逸の奴原《やつばら》に蹂躙《じゅうりん》せらるるのか。小シモンヌが涙ぐんだのを見て巴里を離れるのは慚愧《ざんき》を感ずる。僕には此処《ここ》は旅の土だ。彼等には墳墓の地だ。感慨無量だ」
巴里から同行した美術家仲間はこの手紙を見てリオンへ向けて発《た》って行った。リモオジュには牧野と岸本だけが残った。三日ばかり経《た》つと、巴里から最終の報告が来た。それを読んで岸本は巴里の天文台及びモン・パルナッスの附近にあった二十一人の同胞を一組とした絵画彫刻科学等の方面の人達が思い思いにあの都を立退いたことを知った。十一人は英国へ。一人は米国へ。二人はニスへ。一人はリオンへ。ディエップ行の列車も明日の朝の三時が最後だとか一歩遅れれば籠城《ろうじょう》の外は
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