は、彼は町の附近に見つけて置いた自分の好きな場所へよく高瀬を誘って行った。天文台の裏手にあたる静かな並木の続いた道へ。ルュキサンブウルの美術館の裏手にある薔薇園《ばらえん》へ。時にはまたゴブランの市場に近い貧しい町々の方へ。そして、詩と科学と同時にあるような巴里を客舎の窓から眺《なが》めて長い研究生涯の旅の途中にしばらく息を吐《つ》いて行こうとするような高瀬に、自分の身を思い比べた。
八十五
「お前の旅は他の人とは違うだろう。お前は隣室の高瀬にまで隠そうとしていることが有るだろう。お前はそれで枕《まくら》を高くしてお前の寝台に眠ることが出来るのか」
こういう声が来て岸本を試みた。丁度町の角にあたる岸本の部屋は、産科病院の見える並木街に向いた方で高瀬の部屋に続き、モン・トオロン行の乗合自動車の通る狭い横町に向いた方で今一つの部屋に続いていた。その部屋の方は控訴院附の弁護士だという少壮な仏蘭西人が寝泊するだけに借りていて、朝早く出ては晩に遅くなって帰って来た。日中は居ないも同様であった。下宿人としては高瀬、岸本の外に年若な独逸人が居るだけで屋《うち》の内《なか》は割合にひっそりとしていた。自分の部屋に居て聞くと、どうかすると隣室を歩き廻る高瀬の靴音が岸本の耳に入る。科学的な研究を一生の仕事としているような高瀬も油絵具で室内のさまでも描いて見ることを慰みにして、巴里へ来た序《ついで》にそうした余技を試みているらしい。壁越しに聞えて来る靴音は、その人に面と対《むか》っている時にも勝《まさ》って、隣の旅客の学者らしい倦怠《けんたい》を伝えて来た。
岸本は置戸棚《おきとだな》の開き戸に張ってある姿見の前に行った。旅に来て一層白さの眼立つように成った彼自身の髪の毛がその硝子《ガラス》に映った。しばらく彼は自分で自分のすがたに見入っていた。何となく自ら欺こうとするような人がその姿見の中に居た。
「Dead secret.」
ふとそんな忌々《いまいま》しい言葉が英語で彼の口に浮んだ。誰にも知れないように自己の行跡を葬ろうとしている岸本は、なるべく他の事に紛れて、暗い秘密に触《さわ》ることを避けようとした。遠く国を離れて一年あまり待つうちに、「何事《なんに》も知らない人が一寸《ちょっと》見たぐらいでは分らないまでに成ったから安心してくれ」という便《たよ》りを姪から受取るほどに成った。兄が黙っていてくれ、節子が黙っていてくれ、自分もまた黙ってさえいれば、どうやらこの事は葬り得られそうに見えて来た。兄が黙っていてくれないようなことは無かった。兄は一度引受けたことを飽くまでも守り通す性質で、人一倍体面を重んずる人で、おまけにこの事は娘の生涯にも関《かかわ》ることであるから。節子が黙っていてくれないようなことは無かった。以前に使っていた婆やをすら恐ろしいと言って機嫌《きげん》を取っていると書いてよこすほどの彼女であるから。して見ると自分さえ黙っていれば――黙って、黙って――そう岸本は考えて、更に「時」というものの力を待とうとした。もとより彼は自己《おのれ》の鞭《むち》を受けるつもりでこの旅に上って来た。苦難は最初より期するところで、それによって償い得るものなら自分の罪過を償いたいとは国を出る時からの願いであった。
「こんな思をしても、まだそれでも足りないのか」
と彼は自分で自分に繰返して見た。
八十六
節子はめずらしく岸本の夢に入った。寝苦しさのあまり、岸本が重い毛布を跳ねのけ、壁の側の寝台の上に半ば身を起して周囲《あたり》を見廻した時は、まだ夢の覚《さ》め際《ぎわ》の恐ろしかった心地《ここち》が残っていた。
夏らしい夜ではあったが、妙に寒かった。岸本は寝衣《ねまき》の上に国の方から持って来た綿入を重ねて、寝台を下りて見た。窓に近く行って高い窓掛を開けて見ると、夜の明けがたの蒼白《あおじろ》い静かな夢のような光線が彼の眼に映った。街路もまだ響の起らない時で、僅《わず》かに辻馬車《つじばしゃ》を引いて通る馬の鈴の音《ね》と、町々を警《いまし》めて歩く巡査の靴音とが、暗いプラタアヌの並木の間に聞えていた。明けそうで明けない短か夜の空は国の方で見るよりもずっと長い黄昏時《たそがれどき》と相待って、異国の客舎にある思をさせる。隣室の高瀬も、仏蘭西人の弁護士もまだよく寝入っている頃らしかった。岸本は喫《の》み慣れた強い仏蘭西の巻煙草《まきたばこ》を一服やって、めったに見たことのない節子の来た夢を辿《たど》った。乳腫《ちちばれ》で截開《せっかい》の手術をしたという彼女が胸のあたりを気にしている容子《ようす》が岸本の眼にちらついた。あだかも一種の恐怖に満ちた幻覚によって、平素《ふだん》はそれほどにも思わない物の意味を切に感ずるように。
「叔父さんは知らん顔をして仏蘭西から帰っていらっしゃいね」
と東京浅草の家の方で節子の言った言葉、岸本が旅仕度《たびじたく》でいそがしがっていた頃に彼女の近く来て言ったあの言葉が、ふと胸に浮んだ。岸本は独りでそれを思出して見て、ひやりとした。
窓掛を開けたままにして置いて、復《また》岸本は寝台に上った。もう一度眠に落ちた彼が眼を覚ました頃は大分遅かった。その朝、恐ろしかった夢の心地は、起出して机に対《むか》った時でもまだ彼から離れなかった。
「節ちゃんはどうしてああだろう。どうしてあんな手紙を度々|寄《よこ》すんだろう」
こう岸本はそこに姪でも居るかのように独りで言って見て、溜息《ためいき》を吐《つ》いた。なるべく「あの事」には触れないように、それを思出させるようなことさえ避けたくている岸本に取っては、節子から度々《たびたび》手紙を貰《もら》うさえ苦しかった。彼は以前にこの下宿に泊っていた慶応の留学生からある独逸語を聞いたことがある。その言葉が英語の incest を意味していて、偏《かたよ》った頭脳のものの間に見出される一つの病的な特徴であると説明された時は、そんな言葉を聞いただけでもぎょっとした。彼はまたある若い夫人に関係があったという他の留学生の身上話を聞かされた時にも、その若い夫人が夫の旅行中に妊娠したという話を聞かされた時にも、そんな話を聞いただけで彼は酷《ひど》く心に責められたことがある。況《ま》してその年若な留学生が自己の美貌《びぼう》と才能とを飾るかのようにその話を始めた時には、彼は独りで激しい心の苦痛を感ぜずにはいられなかった。何故、不徳はある人に取って寧《むし》ろ私《ひそ》かなる誇りであって、自分に取ってこんな苦悩の種であるのだろう、と嘆いたことさえあった。この一年あまりというもの、彼は旅に紛れることによって、僅《わずか》に心の眼を塞《ふさ》ごうとして来た。
八十七
なつかしい故国の便りは絵葉書一枚でも実に大切に思われて時々|旧《ふる》い手紙まで取出しては読んで見たいほどの異郷の客舎にあっても、姪《めい》から貰った手紙ばかりは焼捨てるとか引裂いてしまうとかして、岸本はそれを自分の眼の触れるところに残して置かなかった。蔭ながら彼は節子に願っていた。旅にある自分のことなぞは忘れて欲しい、生先《おいさき》の長い彼女自身のことを考えて欲しいと。その心から彼はなるべく節子宛に文通することを避け、彼女に書くべき返事は義雄兄宛に書くようにして来た。しかし、もう好い加減に忘れてくれたかと思う時分には、復た彼女から手紙が来て、その度に岸本は懊悩《おうのう》を増して行った。神戸以来幾通となく寄《よこ》してくれた彼女の手紙は疑問として岸本の心に残っていた。あの暗い影から――一日も離れることの無かったほど附纏《つきまと》われたというあの暗い影から、漸《ようや》く離れることが出来たと言って書いて寄した時からの彼女は、何となく別の人である。あれほどの深傷《ふかで》を負わせられながら、彼女は全く悔恨を知らない人である。岸本に言わせると、若い時代の娘の心をもって生れて来た節子のような女が、非常に年齢《とし》の違った、しかも鬢髪《びんぱつ》の既に半ば白い自分のようなものに対《むか》って、彼女の小さな胸を展《ひろ》げて見せるということが有り得るであろうかと。そう思う度に、岸本は節子が一人の男の児の母であることを想って見た。離れ易《やす》く忘れ易い男と女の間にあって、どれ程その関係が根深いものであるかをも想って見た。そこまで想像を持って行って見なければ、彼女の書いて寄す手紙はどうしても岸本の腑《ふ》に落ちないふしぶしが有った。
「子供を持つとああいうものかしら――」
何時《いつ》の間にか岸本は思い出したくないことを思い出して、独りで部屋の内に茫然《ぼうぜん》と腰掛けていた。彼は、節子が不義の観念を打消すことによって彼女の母性を護ろうとしているのではないかと疑った。遠く離れて節子のことを考える度に、彼は罪の深いあわれさを感ずるばかりでなかった。同時に言いあらわし難い恐怖《おそれ》をすら感ずるように成った。
部屋の扉《と》を外から叩《たた》く音がした。岸本は椅子を離れて扉を開けに行った。
八十八
扉《と》を叩いたのは岡であった。新しい展覧会の催しがあると言っては誘いに来てくれ、マデラインの寺院《おてら》に近い美術商店に新画が掛替ったと言っては誘いに来てくれるこの画家の顔を見ると、岸本も気を取直した。岡は国へ帰りたくないというような思い屈したものばかりでなく、何時でも血気|壮《さかん》な若々しいものを一緒に岸本の許《もと》へ持って来た。
「岡君、君はアベラアルのことを聞いたことは有りませんか」
と岸本が言出した。
古い歴史の多い巴里に居て見るとこの大きな蔵のような都からは何が出て来るか知れないということから始めて、岸本はアベラアルとエロイズの事蹟《じせき》が青年時代の自分の心を強く引きつけたこと、巴里に来て見るとあのアベラアルが往昔《むかし》ソルボンヌの先生であったこと、あの名高い中世紀の坊さんあたりの時代から今のソルボンヌの学問の開けて来たこと、それから巴里のペエル・ラセエズの墓地にあの二人の情人の墓を見つけた時の驚きと喜びとを岡に語った。
「この下宿には今、柳という博士も飯だけ食いに通って来ています。千村君の居たホテルに泊っています。矢張《やはり》京都の大学の先生でサ。その柳博士に、隣に居る高瀬君に、僕と、三人でペエル・ラセエズを訪《たず》ねて見ましたよ。なかなか好い墓地でした。突当りには『死の記念碑』とした大理石の彫刻もあったし、丘に倚《よ》ったような眺望《ちょうぼう》の好い地勢で、礼拝《らいはい》堂のある丘の上からは巴里もよく見えました。散々僕等は探し廻った揚句に、古い御堂の前へ行って立ちました。それが君、アベラアルとエロイズの墓サ。二人の寝像《しんぞう》が御堂の内に置いてあって、その横手のところには文字が掲げてありました。この人達は終生変ることのない精神的な愛情をかわしたなんて書いてありましたっけ。まあ比翼塚《ひよくづか》のようなものですね。でも君、青苔《あおごけ》の生《は》えた墓石に二人の名前が彫りつけてでもあって、それを訪ねて行くんなら比翼塚の感じもするが、どうしてそんなものじゃない。男と女の寝像が堂々と枕を並べているから驚く。『さすがにアムウルの国だ』なんて、高瀬君が言って笑いましたっけ」
この岸本の旅らしい話は岡を微笑《ほほえ》ませた。岸本は言葉を継いで、
「しかし、カトリックの国でなければ見られないような、古めかしい、物静かな御堂でしたよ。御参りに行くような人も君、沢山あると見えて、その御堂を囲繞《とりま》いた鉄柵《てっさく》のところには男や女の名が一ぱいに書きつけて有りましたっけ。ああいうところは西洋も日本も同じですね。皆あの二人の運命にあやかりたいんですね――」
そこまで話して行くと、岡は岸本の言葉を遮《さえぎ》った。
「岸本さん、あなたはどう思うんです。あなたの年齢《とし》になっても、まだ恋を想像するよう
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