はその弁護士にも滝という人の事を尋ねた。あだかも法律を談ずる日本の弁護士ともあるべき人が日本の芸術界の消息に通じていない筈《はず》はないという調子で。その弁護士は滝の名も聞いたことがないと答えたので、老婦人は主人や岸本を前に置いて平素にない苛酷《きび》しい調子を出して言った。
「お二人とも御存じが無い」
 主人はまた東洋の果にあるマドマゼエルの身を案じ顔に、黙ってお母さんの前に立っていた。

        八十一

 岸本は自分をこの仏蘭西人の家族に紹介してくれたマドマゼエルの為に、日本の空を慕って行ったという可憐《かれん》な人の為に、出来るだけその滝という美術家のことを調べて見て、遠く離れて心配している叔母さん達を安心させたいと思った。ビヨンクウルの家を辞して、ポプリエの並木の続いた岸づたいに河蒸汽の乗場へ下りて行く道すがらも、彼は自分で自分に尋ねて見た。何故ビヨンクウルの人達はあれほどマドマゼエルの結婚を心配するのであろうかと。
「相手方が日本人だからではないか――」
 答はどうしてもそこへ落ちて行った。船に乗ってからも岸本はあのマドマゼエルの異国趣味が日本人と結婚するところまで突きつめて行ったかと思いやった。
 それから数日の後、岸本はマドマゼエルの配偶者に就《つ》いて好い話を聞き込んだ。在留する美術家仲間でも、最近にスエズ廻りで国の方から来た画家の牧野が滝のことをよく知っていた。牧野は岡と懇意で、東京の番町の友人とも知合の間柄であった。「老大《ろうだい》」を送り、美術学校の助教授を送り、その他岸本が知っているだけでも三人の若手の美術家を送った「巴里の村」では、この牧野、西伯利亜廻りで来た小竹、その他二三の新顔を加えた訳であった。
「滝のような男の細君に成ったものは、そりゃ仕合《しあわせ》ですよ」
 この牧野の言葉に力を得て、早速《さっそく》岸本はビヨンクウル宛《あて》に好い報知《しらせ》を送った。好い生立《おいた》ちを有《も》った滝の頼もしい人柄に就いて牧野から聞取ったことを書いて、マドマゼエルは選択を過《あやま》らなかった、決して心配することは要《い》らないと思うと書添えて送った。
 書記のお母さんの返事は避暑地なるセエブル・ドロンヌの海岸の方から岸本の許《もと》へ来た。老婦人は岸本の方から言って遣《や》ったことの礼から書出して、忰《せがれ》は今巴里に居るが、しかし御手紙は自分にも読めと言って当地へ送って来たから、自分から御返事する、いろいろ難有《ありがた》かったと書いてよこした。もしも自分の兄が――姪の実父が今日までも生きながらえていたなら、いかに彼がこの結婚を考えたであろう、それを思うと自分はただただ心に驚くばかりであると書いてよこした。しかし御申越の様子では万事好さそうにも思われるし、何等《なんら》の助言をも姪から自分の許へは求めても来ないから、自分等は蔭《かげ》ながらこの事の都合好く運ばれるのを望んでいると書いてよこした。老婦人はまたセエブル地方の大きく美しいことを言い添えて、ここへ暑《あつさ》を避けに来ている幾多の家族は皆友達のようであり、砂上に遊び戯るる子供等を見るのも楽いと書いてよこした。とかく季候は雨勝ちであったが、幸いに日も輝いて来たと書いてよこした。あなたの老友よりともしてよこした。

        八十二

 思いがけない人の心を読んだという心持で、岸本はビヨンクウルの書記|宛《あて》にもう一度手紙を書いてやった。そんなにマドマゼエルの結婚談が心配になるなら、東京の番町の友人はマドマゼエルの力に成る人と思うから、万事あの友人に相談するようマドマゼエルの許へ言ってやったら可《よ》かろうとした手紙を送った。
 この手紙は老婦人の方へ廻って行ったと見え、折返しセエブルの海岸から返事が来た。姪《めい》のことで御心配をかけて済まなかったと老婦人は書いてよこした。申すも心苦しいが、姪は我儘者《わがままもの》で、彼女の好きなことしかした例《ためし》がない、もともと彼女は極くきゃしゃに生れついたもので、彼女の母親も父親もあれまでに彼女が育つとは考えなかったほどである、そして彼女の空想のままに彼女の好めるままにさせて置いて両親が黙って視《み》ていたというのも、恐らくその原因は彼女が長いこと弱々しかったところにあると思うと書いてよこした。彼女は非常に富有な家に生れて、世間というものを知らずにいる、随《したが》って他《ひと》の忠告を容《い》れようとはしない、何事も彼女が独《ひと》りで出来ると思うならば、それが出来れば実に結構であると書いてよこした。なんでも滝という方は巴里《パリ》遊学中には姪を御存じもなかったようである、姪からの手紙には非常に遠慮深い方だとしてあるが、彼女はその滝さんがいかなる種類の美術家であるやすらも報告することを忘れていると書いてよこした。もしまたあなたが忰《せがれ》宛に何か御知らせ下さるようなことが有れば、忰は相変らず図書館の方に通っているし、自分もあなたの御意見によって番町の御友人とやらに御相談するよう姪の許へ只今《ただいま》別に書面を送るつもりである、しかしその御友人の反対を恐れたら、あるいは姪は御相談にも参らないかも知れないと書いてよこした。彼女は半死の床にある母親を捨ててただただ彼女の娯楽のために日本の方へ去ったものである、自分等は電報で彼女の帰国を促したが、彼女が病める母を見舞うために巴里へ着いた時は既に万事が終った後であったと書いてよこした。彼女の我儘は考えて見るだに恐ろしい、自分等には彼女の心は分らないと書いてよこした。
 この老婦人の手紙を前に置いて見ると、岸本は自分まで一緒に叱《しか》られているような気を起した。何事も思った通りにしか出来ないのは、あのマドマゼエルばかりでなくて、彼自身が矢張《やはり》それであるから。しかし彼は心の中でマドマゼエルを弁護した。「日本というものは自分に取っては空想の郷《くに》でしたからね」とは老婦人の述懐ではないか。言わばマドマゼエルは叔母さんの夢見たことを実際に身に行おうとした人ではないか。その人が日本に行き、日本人と結婚するという場合に、何故もっと同情のある心は持てないのであろうか。半死の床にある母親を捨てて仏蘭西《フランス》を出たということは、あるいはマドマゼエルの落度《おちど》かも知れないが、それほど思いつめたところが無くてどうして単身東洋の空に向うことが出来ようかと。
 
        八十三

 老婦人の手紙の中には可成《かなり》苛酷《きび》しいことが書いてあった。しかし知らない土地の人でそれだけ真実《ほんとう》のことを岸本のところへ書いてよこしてくれる人すら、めったに無かった。彼は異邦人としての自分の旅がそれほど土地の人達の生活から縁遠いものであることを知って来た。諸国から巴里に集って来る多くの旅人を相手に生計を営んでいるような人達の間に醸《かも》される空気が、非常に慇懃《いんぎん》なもので険しく冷いものを包んでいるような空気が、慣れては知らずにいるほど職業的に成ってしまったような空気が、実に濃く彼の身を囲繞《とりま》いていることを知って来た。仏蘭西人の家庭を見て来た眼で自分の下宿を見る度《たび》に、何時《いつ》でも彼は嘆息してしまった。
 岸本の下宿には高瀬という京都大学の助教授が独逸《ドイツ》の方から来て泊っていた。この人の部屋は岸本の部屋と壁|一重《ひとえ》隔てた直《す》ぐ隣りにあった。窓一つあるその部屋へ行って見ると、高いプラタアヌの並木の枝が岸本の部屋で見るよりも近く窓際《まどぎわ》に延びて来ていて、濃い葉の緑は早や七月の来たことを語っていた。
「千村君の居た宿屋が見えますね」
 と岸本は思出したように言って、青々とした葉裏から透けて見える向うの旅館の建築物《たてもの》を眺《なが》めた。高瀬を岸本のところへ紹介してよこしたのも同じ大学の教授であった、岸本に取ってはこの下宿の食堂でしばらく食事だけを共にした千村であった。
「千村君も、よくそれでもあんな宿屋に辛抱したと思いますよ」と岸本が言った。「千村君が私にそう言いましたっけ。『あなたの部屋の方は、まだそれでも羨《うらや》ましい。是方《こちら》の窓から見てますと、あなたの部屋の窓には一日日が映《あた》っています』ッて。高い建築物《たてもの》ばかりで出来た町ですから、ああいう日の映らない部屋もあるんですね。ホテルだなんて言うと好さそうですが、実際千村君には御気の毒なようでした」
 こう話しているうちに、向うの旅館へ岸本の方から押掛けて行って夜遅くまで互いに旅の思いを比べ合ったり、千村の方からも食事の度にこの下宿へ通って来て話し込んで行ったりした時のことが、岸本の胸に浮《わ》いて来た。
「千村君の居る頃には、懐郷病《ホームシック》の話なぞもよく出ましたっけ。『お前が西洋へ行ったら、必《きっ》と懐郷病に罹《かか》る』と言われて来たなんて、そんな話も有りました」
 と復《ま》た岸本が独逸の方に行っている千村の噂《うわさ》をすると、高瀬も何か思い出したように、
「西洋へ来ているもので、多少なりとも懐郷病に罹っていないようなものは有りませんよ」
 この高瀬の嘆息は、無暗《むやみ》と強がっているような旅行者の言葉にも勝《まさ》って、なつかしい同胞の声らしく岸本の耳に聞えた。

        八十四

 高瀬は千村教授と同じように経済の方面で身を立てた少壮な学者であった。岸本が巴里で逢《あ》った頃の千村に比べると、高瀬は独逸の方で散々いろいろな思いをした揚句《あげく》に巴里へ来た人で、それだけあの教授よりは旅慣れていた。高瀬は独逸の方で見たり聞いたりしたさまざまな旅行者の話を巴里へ持って来た。驚くべく激しい懐郷病に罹った同胞の話なぞも高瀬の口から出て来た。ある留学生は高い窓から飛んで死んだ。ある人は極度のヒステリックな状態に堕《お》ちた。その人は親切と物数寄《ものずき》とを同時に兼ねたような同胞の連に引立てられて、旅人に身をまかせることを糊口《くちすぎ》とするような独逸の女を見に誘われて行った。突然その人は賤《いや》しい女を見て泣出したという。こんな話を高瀬から聞いた時にも、岸本は笑えなかった。
「酷《ひど》いものですな」と岸本が言った。「巴里にあるわれわれの位置は、丁度東京の神田あたりにある支那《しな》の留学生の位置ですね。よく私はそんなことを思いますよ。これでは懐郷病にも罹る筈《はず》だと思いますよ。今になって考えると、あんなに支那の留学生なぞを冷遇するのは間違っていましたね」
「神田辺を歩いてる時分にはそうも思いませんでしたがなあ。欧羅巴《ヨーロッパ》へ来て見てそれが解《わか》りました」と高瀬も言った。
「あの連中だって支那の方では皆相当なところから来てる青年なんでしょう。その人達が旅人扱いにされて、相応な金をつかって、しかもみじめな思いをするかと思うと、実際気の毒になりますね。金をつかって、みじめな思いをするほど厭《いや》なものはありませんね。私が国を出て来る時に、『欧羅巴へ行って見ると、自分等は出世したのか落魄《らくはく》しているのか分らない』と言った人も有りましたっけ」
 思わず岸本は支那留学生に事寄せて、国を出る時には想像もつかなかったような苦い経験を、日頃の忍耐と憤慨とを泄《も》らそうとした。彼はパスツウルの近くに画室住居する岡や牧野や小竹のことなぞを考える度に、淫売婦《いんばいふ》や裏店《うらだな》のかみさんのような人達と同じ屋根の下に画作することを胸に浮べて、あの連中の実際の境遇を憐《あわれ》まずにはいられなかった。自由、博愛、平等を標語とするこの国には極く富んだものと極く貧しいものとが有るだけで、自分の郷国《くに》にあるような中位《ちゅうい》で快適な生活はないのかとさえ疑った。
 朝に晩に旅の思いを比べ合う高瀬のような話相手を得て見ると、岸本は名状しがたい心持が自分ばかりの感じているものでもないことを知った。屋外《そと》へ歩き廻りに行く折などに
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