岸本の胸に残した。
「今だから白状しますが、岸本君の詩集では随分僕も罪をつくりましたねえ。考えて見ると僕も不真面目《ふまじめ》でしたよ。君の詩をダシに使って、どれ程若い女を迷わしたか知れませんよ」
客の残して置いて行ったこの声はその人が居ない後になっても、まだ部屋の内《なか》に残っていた。岸本が若い時分に作った詩を幾つとなく暗誦《あんしょう》したという客の顔はまだ岸本の眼前《めのまえ》にあった。その人はそよそよとした心地《こころもち》の好い風が顔を撫《な》でて通るような草原に寝そべって岸本の旧詩を吟じている若者を想像して見よとも言った。花でも摘もうとするような年若な女学生がよくその草原へ歩きに来ると想像して見よとも言った。風の持って行く吟声は容易に処女《おとめ》の心を捉《とら》えたとも言った。そしてその処女が何事《なんに》も世間を知らないような良い身分の生れの人であればあるだけ、岸本の詩集が役に立ったとも言った。客が清《すず》しい、ほれぼれとするような声を有《も》っていることは岸本もよく知っていた。この無邪気とも言えない、しかし子供のように噴飯《ふきだ》したくなるような告白は岸本を驚かした。彼は全く自分と気質を異にした人の前に立って見たような気がしたのであった。
「しかし昔のような空想はだんだん無くなって行きますね。それだけ自分でも年をとったかと思いますね。僕は時々そう思いますよ、恋が出来ないと成ったら人間もこれで心細いものです。自分にはまだ出来る、そう思って僕は自分で慰めることが有りますよ」
これも客の残して行った声だ。
「僕にも出来る」
と客の前に立って、力を入れてそれを言ったのは岡だ。岸本はその時の二人の眼のかがやきをまだ眼前に見ることが出来た。
客が女性に近づくための方便としたという岸本の詩集は、作者たる彼に取ってはあべこべに女性の煩《わずら》いから離れた時に出来た若い心の形見であった。漸《ようや》く彼も二十五歳の頃で、仙台の客舎へ行ってそれを書いた。あの仙台の一年は彼が忘れることの出来ない楽しい時代である。ずっと後になってもよく思い出す時代である。そしてその楽しかった理由は、全く女性から離れて心の静かさを保つことが出来たからで。実際岸本は女性というものから煩わされまいとして青年時代からその日まで歩き続けて来たような男であった。
七十八
発《た》つ発つという噂《うわさ》があって発てなかった美術学校の助教授がいよいよ北の停車場《ステーション》から帰国の途に上るという日は、ほんとうに人を送るような思いをして岸本も停車場まで出掛けて行った。その日は巴里に在留する美術家仲間は大抵集まった。送られる助教授は帰って行く人で、送る連中は残っているものだ。旅の心持は送るものの方にも深かった。丁度遠い島にでも集まっているもののところへ迎えの船が来て、ある一人だけがその船に乗ることを許されたように。助教授は若い連中からも気受の好い人であった。日本飯屋のおかみさんの家に外国人を混ぜずの無礼講の会でもあって、無邪気な美術家らしい遊びに皆旅の憂《う》さを忘れようとする場合には、助教授は何時でも若いものと一緒になって歌った。このさばけた先達《せんだつ》を見送ろうとして、よく鎗錆《やりさび》を持出した画家と勧進帳《かんじんちょう》を得意にした画家とはダンフェール・ロシュルュウの方面から、口三味線《くちじゃみせん》の越後獅子《えちごじし》に毎々人を驚かした画家はモン・パルナッスから、追分《おいわけ》、端唄《はうた》、浪花節《なにわぶし》、あほだら経、その他の隠し芸を有《も》った彫刻家や画家は各自《めいめい》に別れ住む町々から別離《わかれ》を惜みに来た。岡はまた帰国後の助教授の口添に望みをかけて、あきらめ難い心を送るという風であった。こんな場合ででもなければめったに顔を合せることも無いような美術家とも岸本は一緒になった。仏蘭西《フランス》の婦人と結婚して六七年も巴里に住むという彫刻家にも逢った。亜米利加《アメリカ》の方から渡って来て画室|住居《ずまい》するという小柄な同胞の婦人の画家にも逢った。
助教授を見送って置いて、岸本は地下電車でヴァヴァンの停留場へ出た。彼は所詮《しょせん》国へは帰れないという心を切に感じて来た。その心は国の方へ帰って行く人を見ることによって余計に深められた。ヴァヴァンから下宿をさして歩いて行くと、丁度|羅馬《ローマ》旧教のコンミュニオンの儀式のある頃で、ノオトル・ダムの分院の前あたりで寺参りの帰りらしい幾人《いくたり》かの娘にも行き逢った。清楚《せいそ》な白衣を着た改まった顔付の処女《おとめ》等は母親達に連れられて幾組となく町を歩いていた。彼はこの知らない人ばかりの国へ来てこれから先の自分の生涯をいかにしようかと思い煩った。
「今日まで自分を導いて来た力は、明日も自分を導いてくれるだろうと思う――そんなに心配してくれ給うな」
東京の方のある友人に宛《あ》てて書いたこの言葉を、岸本は下宿に戻ってからも思い出して見た。出来ることなら彼は旅先で適当な職業を見つけたいと願っていた。出来ることなら国の方に残して置いて来た子供等までも引取って異郷に長く暮したいと願っていた。それにはもっと時をかけ好い語学の教師を得て、言葉を学ぶ必要があった。この言葉を学ぶということと、旅先で執れるだけ筆を執って国を出る時に約束して来た仕事を果すということとは、とかく両立しなかった。おまけに手紙の往復にすら多くの月日を要する遠い空にあっては、国の方の事情も通じかねることが多く、ややもすると彼は眼前の旅をすら困難に感じた。
「運命は何処《どこ》まで自分を連れて行くつもりだろう」
こうした疑問は岸本の胸を騒がせた。どうかすると彼は部屋の床の上に跪《ひざまず》き、堅い板敷に額を押宛てるようにして熱い涙を流した。
七十九
知らない人達の中へ行こうとした岸本は一年ばかり経《た》つうちに、ビヨンクウルの書記やブロッスの教授の家族をはじめ、ラペエの河岸《かし》に住む詩人、マダムという町に住む婦人の彫刻家、ベチウスの河岸に住む日本美術の蒐集家《しゅうしゅうか》なぞの家族を知るように成った。しかし何かこう食足りないような外来の旅客としての歯痒《はがゆ》さは土地の人に交れば交るほど岸本の心に附纏《つきまと》った。
六月に入って、岸本はビヨンクウルの書記のお母さんから手紙を貰《もら》った。その中にあの老婦人が長いこと病床にあったことから書出して、定めしあなたのことも忘れていたかのようにあなたには思われようが、決してそうで無い、この御無沙汰《ごぶさた》も自分の病気ゆえであると書いてよこした。次の土曜日の晩には食事に来てくれないか、自分等一同あなたを見たいと書いてよこした。最早あなたも少しは仏蘭西語を話されることと思う、自分の家の嫁は英語を話さず忰《せがれ》もとかく留守勝ちのために、しばしばあなたを御招きすることもしなかったと書いてよこした。東京の姪《めい》からも手紙で、あなたにお目に掛るかとよく尋ねよこすと書いてよこした。老婦人はこの手紙を英語で書いてよこした。あの書記のお母さんは一時は危篤を伝えられたほどで、病中に岸本はビヨンクウルを訪《たず》ねても老婦人には逢わずに帰って来たことも有った。
「仏蘭西へ来て一番最初に逢った老婦人が、一番多く自分のことを考えていてくれる」
岸本は何かにつけてそれを感じたのであった。
パントコオトの日も過ぎた頃、岸本は復《ま》たビヨンクウルから手紙を貰った。
その時はお母さんの手でなくて、書記の手で、二三の親しい友達や親戚《しんせき》のものが茶に集るから、岸本にも出掛けて来るようにと、してあった。
ベデカの案内記なしにはセエヌ河も下れなかった頃に比べると、ともかくも岸本は水からでも陸からでもビヨンクウルに行かれるまでに旅慣れて来た。彼は好きな仏蘭西人の家族を見る楽みをもって、電車でセエヌ河の岸を乗って行った。書記の家の門前に立って鉄の扉を押すと、例の飼犬が岸本を見つけて飛んで来たが、最早《もう》吠《ほ》えかかりそうな姿勢は全く見せなかった。
老婦人は草花の咲いた庭に出ていて、家の入口の正面にある広い石階《いしだん》の近くに幾つかの椅子を置き、そこで客を待っていた。その辺には長い腰掛椅子も置いてあった。ところどころに樹の葉の影の落ちている午後の日の映《あた》った庭の内で、岸本は老婦人や細君や茶に招かれて来ている婦人の客などと一緒に成った。仏蘭西の婦人を細君にする露西亜《ロシア》の音楽家という夫婦にも引合わされた。
「私も、もう岸本さんにお目に掛れまいかと思いましたよ。こんなに丈夫に成ろうとは自分ながら夢のようです」
それを老婦人は岸本に言って聞かせた。
半死の病床から再び身を起した老婦人が相変らず古風な黒い仏蘭西風の衣裳《いしょう》を着け、まだいくらか自分で自分の年老いた体躯《からだ》をいたわり気味に庭の内を静かに歩いているのを見ることは、岸本に取っても不思議のように思われた。彼はこの老婦人が財産を皆に分けてくれ、遺言《ゆいごん》までもした後で、もう一度丈夫に成ったその手持無沙汰な様子を動作にも言葉にも看《み》て取った。そればかりではない、しばらく話しているうちに、彼はこの家の人達に取ってある真面目《まじめ》な問題が起っていることを知った。
八十
仏蘭西を捨てて日本の方へ行ってしまった老婦人の姪の噂が出た。茶の会とは言ってもその日は極く内輪のものだけの集りらしく、紅茶の茶碗《ちゃわん》を手にした人達があちこちの椅子に腰掛けて思い思いに話していた。その中で岸本は老婦人の口から、東京の方にあるマドマゼエルの結婚の話を聞いた。
老婦人は心配顔に、
「あの手紙を持って来て御覧」
と細君に言った。細君は家の正面にある石階《いしだん》を上って行って、日本から来た手紙をそこへ持って来た。
「お母さん、滝《たき》という方ですよ」と細君はマドマゼエルの手紙を見て言った。
「岸本さんは滝さんという美術家を御存じですか」と老婦人が訊《き》いた。
「滝という苗字《みょうじ》の美術家なら二人あることは知ってますが、しかし私は直接にはよく知りません」
この岸本の答は一層老婦人を不安にしたらしかった。
「岸本さんですらよくは御存じないと仰《おっしゃ》る」
と老婦人は細君と眼を見合せて、姪が結婚するという美術家はどういう日本人であろうという意を通わせた。仏蘭西の方に居てマドマゼエルの為にほんとうに心配している人は、何と言ってもこの叔母さんらしかった。その時岸本は、「姪がああして日本の方へ行ってしまったのは、私が悪いのだ、私の落度だ、と言って皆が私を責めます」と曾《かつ》て老婦人が彼に言ったことを思い出した。事情に疎《うと》い外国の婦人の身をもって、果して適当な配偶者を異郷に見出《みいだ》すことが出来たであろうか、こうした掛念《けねん》がありありと老婦人の顔に読まれた。
「この滝さんは巴里に遊学していらしったことも有るそうです。手紙の中にそう書いてあります」
と細君が言って、マドマゼエルの手紙をひろい読みして聞かせる中に、岸本に取っては親しい東京の番町の友人の名が出て来た。番町の友人の紹介で、マドマゼエルがその美術家を知ったらしいことも分って来た。
「日本で結婚するなんて、儀式はどうするんでしょう、宗教はどうするんでしょう――マドマゼエルも唯《ただ》一人でさぞ困ることでしょうね」
と細君が言えば、老婦人もその尾に附いて、
「可哀そうな娘」
とつぶやいた。
「とにかく、日本の若い美術家も多勢巴里に来ていることですし、私がその滝さんのことを訊いて進《あ》げましょう。マドマゼエルだってしっかりした人ですから、下手《へた》な事をする気遣《きづか》いはありませんよ」
こう岸本は老婦人や細君を言い慰めた。
間もなく主人と前後して、日本の弁護士がそこへ入って来た。老婦人
前へ
次へ
全76ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング