ゥ分の子供の名を聞くのをめずらしく思った。
「よくこの辺へ遊びに来ますよ」
「へえ、こんな方まで遊びに来ますかねえ」
と岸本は漸《ようや》くその年から小学校へ通うように成った自分の子供のことを言って見た。
無心な少年に別れて、復た岸本は細い疎《まば》らな柳の枯枝の下った石垣に添いながら歩いて行った。柳橋を渡って直《すぐ》に左の方へ折れ曲ると、河岸の角に砂揚場《すなあげば》がある。二三の人がその砂揚場の近くに、何か意味ありげに立って眺めている。わざわざ足を留めて、砂揚場の空地《あきち》を眺めて、手持|無沙汰《ぶさた》らしく帰って行く人もある。
「何があったんだろう」
と岸本は独《ひと》りでつぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の眼に映った。
三
六年ばかり岸本も隅田川に近く暮して見て、水辺《みずべ》に住むものの誰しもが耳にするような噂をよく耳にしたことはあるが、ついぞまだ女の死体が流れ着いたという実際の場合に自分で遭遇《でっくわ》したことはなかった。偶然にも、彼はそうした出来事のあった場所に行き合わせた。
「今朝《けさ》……」
砂揚場の側《わき》に立って眺めていた男の一人がそれを岸本に話した。
両国の附近に漂着したという若い女の死体は既に運び去られた後で、検視の跡は綺麗《きれい》に取片付けられ、筵《むしろ》一枚そこに見られなかった。唯《ただ》、入水《にゅうすい》した女の噂のみがそこに残っていた。
思いがけない悲劇を見たという心持で、岸本は家をさして引返して行った。彼の胸には最近に断った縁談のことが往《い》ったり来たりした。彼は自分の倦怠《けんたい》や疲労が、澱《よど》み果てた生活が、漸く人としてのさかりな年頃に達したばかりでどうかすると早や老人のように震えて来る身体が、それらが皆独身の結果であろうかと考えて見る時ほど忌々《いまいま》しく口惜《くや》しく思うことはなかった。「結婚するならば今だ」――そう言って心配してくれる友人の忠告に耳を傾けないではないが、実際の縁談となると何時でも彼は考えてしまった。
岸本の恩人にあたる田辺《たなべ》の小父《おじ》さんという人の家でも、小父さんが亡《な》くなり、姉さんが亡くなって、岸本の書生時代からよく彼のことを「兄さん、兄さん」と呼び慣れた一人子息の弘の時代に成って来ていた。お婆さんはまだ達者だった。そのお婆さんがわざわざ年老いた体躯《からだ》を車で運んで来て勧めてくれた縁談もあったが、それも岸本は断った。郷里の方にある岸本の実の姉も心配して姉から言えば亡くなった自分の子息の嫁、岸本から言えば甥《おい》の太一の細君にあたる人を手紙でしきりに勧めて寄《よこ》したが、その縁談も岸本は断った。
「出来ることなら、そのままでいてくれ。何時までもそうした暮しを続けて行ってくれ」
こういう意味の手紙を一方では岸本も貰わないではなかった。尤《もっと》も、そう言って寄してくれる人に限ってずっと年は若かった。
独りに成って見て、はじめて岸本は世にもさまざまな境遇にある女の多いことを知るように成った。その中には、尼にも成ろうとする途中にあるのであるが、もしそちらで貰ってくれるなら嫁に行っても可《い》いというような、一度|嫁《かたづ》いて出て来たというまだ若いさかりの年頃の女の人を数えることが出来た。女としての嗜《たしな》みも深く、学問もあって、家庭の人として何一つ欠くることは無いが、あまりに格の高い寺院《おてら》に生れた為、四十近くまで処女《おとめ》で暮して来たというような人を数えることも出来た。こうした人達は、よし居たにしても、今まで岸本には気がつかなかった。独りで居る女の数は、あるいは独りで居る男の数よりも多かろうか、とさえ岸本には思われた。
四
姪《めい》の節子は家の方で岸本を待っていた。河岸から岸本の住む町までの間には、横町一つ隔てて幾つかの狭い路地があった。岸本はどうにでも近道を通って家の方へ帰って行くことが出来た。
「子供は?」
一寸《ちょっと》そこいらを歩き廻って戻って来た時でも、それを家のものに尋ねるのが岸本の癖のように成っていた。
彼は節子の口から、兄の方の子供が友達に誘われて町へ遊びに行ったとか、弟の方が向いの家で遊んでいるとか、それを聞くまでは安心しなかった。
節子が岸本の家へ手伝いに来たのは学校を卒業してしばらく経《た》った時からで、丁度その頃は彼女の姉の輝子も岸本の許《ところ》に来ていた。姉妹《きょうだい》二人は一年ばかりも一緒に岸本の子供の世話をして暮した。その夏|他《よそ》へ嫁《かたづ》いて行く輝子を送ってからは、岸本は節子一人を頼りにして、使っている婆やと共にまだ幼い子供等の面倒を見て貰うことにしてあった。
岸本の家へ来たばかりの頃の節子はまだ若かった。同じ姉妹でも、姉は学校で刺繍《ぬいとり》裁縫造花なぞを修め、彼女はむずかしい書籍《ほん》を読むことを習って来た。その節子が学窓を離れて岸本の家へ来て見た時は、筋向うには一中節《いっちゅうぶし》の師匠の家があり、その一軒置いて隣には名高い浮世画師の子孫にあたるという人の住む家があり、裏にはまた常磐津《ときわず》の家元の住居《すまい》なぞがあって、学芸に志す彼女の叔父の書斎をこうしたごちゃごちゃとした町中に見つけるということさえ、彼女はそれをめずらしそうに言っていた。「私が叔父さんの家へ来ていると言いましたら、学校の友達は羨《うらや》ましがりましたよ」それを言って見せる彼女の眼には、まだ学校に通っている娘のような輝きがあった。あの河岸の柳並木のかげを往来した未知の青年の心――寂しい、頼りのなさそうな若い日の懊悩《おうのう》をよく手紙で岸本のところへ訴えてよこした未知の青年の心――丁度あの青年に似たような心をもって、叔父《おじ》の許《もと》に身を寄せ、叔父を頼りにしている彼女の容子《ようす》が岸本にも感じられた。彼女の母や祖母《おばあ》さんは郷里の山間に、父は用事の都合あって長いこと名古屋に、姉の輝子は夫に随《つ》いて遠い外国に、東京には根岸に伯母《おば》の家があってもそこは留守居する女達ばかりで、民助|伯父《おじ》――岸本から言えば一番|年長《としうえ》の兄は台湾の方で、彼女の力になるようなものは叔父としての岸本一人より外に無かったから。その夏輝子が嫁いて行く時にも、岸本の家を半分親の家のようにして、そこから遠い新婚の旅に上って行ったくらいであるから。
「繁《しげる》さん、お遊びなさいな」
と表口から呼ぶ近所の女の児の声がした。繁は岸本の二番目の子供だ。
「繁さんは遊びに行きましたよ」
と節子は勝手口に近い部屋に居て答えた。彼女はよく遊びに通って来る一人の女の児に髪を結ってやっていた。その女の児は近くに住む針医の娘であった。
「子供が居ないと、莫迦《ばか》に家《うち》の内《なか》が静かだね」
こう節子に話しかけながら、岸本は家の内を歩いて見た。そこへ婆やが勝手口の方から入って来た。
「お節ちゃん、女の死骸《しがい》が河岸へ上りましたそうですよ」
と婆やは訛《なま》りのある調子で、町で聞いて来た噂を節子に話し聞かせた。
「なんでも、お腹に子供がありましたって。可哀そうにねえ」
節子は針医の娘の髪を結いかけていたが、婆やからその話を聞いた時は厭《いや》な顔をした。
五
「お節ちゃん」
子供らしい声で呼んで、弟の繁が向いの家から戻って来た。針医の娘の髪を済まして子供の側へ寄った節子を見ると、繁はいきなり彼女の手に縋《すが》った。
岸本は家の内を歩きながらこの光景《ありさま》を見ていた。彼は亡くなった妻の園子が形見としてこの世に置いて行った二番目の男の児や、子供に纏《まと》いつかれながらそこに立っている背の高い節子のすがたを今更のように眺《なが》めた。園子がまだ達者でいる時分は、節子は根岸の方から学校へ通っていたが、短い単衣《ひとえ》なぞを着て岸本の家へ遊びに来た頃の節子に比べると、眼前《めのまえ》に見る彼女は別の人のように姉さんらしく成っていた。
「繁ちゃん、お出《いで》」と岸本は子供の方へ手を出して見せた。「どれ、どんなに重くなったか、父さんが一つ見てやろう」
「父さんがいらっしゃいッて」と節子は繁の方へ顔を寄せて言った。岸本は嬉《うれ》しげに飛んで来る繁を後ろ向きにしっかりと抱きしめて、さも重そうに成人した子供の体躯《からだ》を持上げて見た。
「オオ重くなった」
と岸本が言った。
「繁さん、今度は私の番よ」と針医の娘もそこへ来て、岸本の顔を見上げるようにした。「小父さん、私も――」
「これも重い」と言いながら、岸本は復《ま》た復たさも重そうに針医の娘を抱き上げた。
急に繁は節子の方へ行って何物かを求めるように愚図《ぐず》り始めた。
「お節ちゃん」
言葉尻《ことばじり》に力を入れて強請《ねだ》るようにするその母親のない子供の声は、求めても求めても得られないものを求めようとしているかのように岸本の耳に徹《こた》えた。
「繁ちゃんはお睡《ねむ》になったんでしょう――それでそんな声が出るんでしょう――」と節子が子供に言った。「おねんねなさいね。好いものを進《あ》げますからね」
その時婆やは勝手口の方から来て、子供のために部屋の片隅《かたすみ》へ蒲団《ふとん》を敷いた。そこは長火鉢《ながひばち》なぞの置いてある下座敷で、二階にある岸本の書斎の丁度|直《す》ぐ階下《した》に当っていた。節子は仏壇のところから蜜柑《みかん》を二つ取出して来て、一つを繁の手に握らせ、もう一つの黄色いやつを針医の娘の前へ持って行った。
「へえ、あなたにも一つ」
そういう場合の節子には、言葉にも動作にも、彼女に特有な率直があった。
「さあ、繁ちゃん、お蜜柑もって、おねんねなさい」と節子は子供に添寝する母親のようにして、愚図々々言う繁の頭《つむり》を撫でてやりながら宥《なだ》めた。
「叔父さん、御免なさいね」
こう言って子供の側に横に成っている節子や、部屋の内を取片付けている婆やを相手に、岸本は長火鉢の側で一服やりながら話す気に成った。
「これでも繁ちゃんは、一頃《ひところ》から見るといくらか温順《おとな》しく成ったろうか」と岸本が言出した。
「一日々々に違って来ましたよ」と節子は答えた。
「そりゃもう、旦那《だんな》さん、こちらへ私が上った頃から見ると、繁ちゃんは大変な違いです。お節ちゃんの姉さんがいらしった頃と、今とは――」と婆やも言葉を添える。
この二人の答は岸本の聞きたいと思うものであった。彼はまだ何か言出そうとしたが、自分で自分を励ますように一つ二つ荒い息を吐《つ》いた。
六
「厭《いや》、繁ちゃんは。懐《ふところ》へ手を入れたりなんかして」と節子は母親の懐でも探すようにする子供の顔を見て言った。「そんなことすると、もう一緒にねんねして進《あ》げません」
「温順《おとな》しくして、おねんねするんですよ」と婆やも子供の枕頭《まくらもと》に坐って言った。
「ほんとに繁ちゃんは子供のようじゃないのね」と節子は自分の懐を掻合《かきあわ》せるようにした。「だからあなたは大人と子供の合の子だなんて言われるんですよ――コドナだなんて」
「コドナには困ったねえ」と婆やは田舎訛《いなかなまり》を出して笑った。「あれ、復た愚図る。誰もあなたのことを笑ったんじゃ有りませんよ。今、今、皆なであなたのことを褒《ほ》めてるじゃ有りませんか。ほんとにまあ、私が上った頃から見ると繁ちゃんは大変に温順しくお成りなすったッて――ネ」
「さあ、おねんねなさいね」と節子は寝かかっている子供の短い髪を撫《な》でてやった。
「ああ、もう寝てしまったのか」と岸本は長火鉢の側に居て、子供の寝顔の方を覗《のぞ》くようにした。「ほんとに子供は早いものだね。罪の無いものだね……この児はなかなか手数が要《かか》る。どうして、繁
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