焉tっていたが、覚束《おぼつか》ない彼の語学の知識では多くはまだ書架の飾り物であるに過ぎなかった。この国の言葉に籠《こも》る陰影の多い感情までも読み得るの日は何時のことかと、もどかしく思われた。
六十六
旅の空で岸本は既に種々《いろいろ》な年齢を異にし志すところを異にした同胞に邂逅《めぐりあ》った。わざわざ仏蘭西船を択《えら》んで海を渡って来て、神戸を離れるから直《ただち》に外国人の中に入って見ようとした程の彼は、巴里に来た最初の間なるべく同胞の在留者から離れていようとした。外国へ来て日本人同志そう一つところへ集ってしまっても仕方が無い、こうした岸本の考え方はある言葉の行違いから一部の在留者の間に反感をさえ引起させた。「岸本は日本人には附合わないつもりだそうだ」と言って彼の誠意を疑うような在留者の声が彼自身の耳にすら聞えて来た。しかしこの疑いは次第に解けて行った。モン・パルナッスの附近に住む美術家で彼の下宿に顔を見せる連中も多くなり、通りすがりの同胞で彼の下宿に足を留めて行く人達も少くはなかった。
岸本は部屋の窓へ行った。京都の大学の教授がしばらく泊っていた旅館の窓が岸本の部屋から見えた。その教授に、東北大学の助教授に、いずれも旅で逢った好ましい人達が食事の度《たび》に彼の下宿の食堂へ通って来たばかりでなく、彼の方からも自分の部屋から見える旅館へ行って夜遅くまで思うさま国の方の言葉を出して話し込んだ時のことが、まだ昨日《きのう》のことのように彼の胸にあった。もし互の事情が許すなら、もう一度|白耳義《ベルジック》のブラッセルか、倫敦《ロンドン》あたりで落合いたいものだと約束して行った教授、一年ぶりで伯林《ベルリン》の地を踏んだと言って帰国の途上から葉書をくれた助教授、それらの人達が去った後の並木街を岸本は独りで窓のところから眺めた。とても国の方では話し合わないような話が異郷の客舎に集まった教授等と自分の間に引出されて行ったことを想って見た。旅の不自由と、国の言葉の恋しさと、信じ難いほどの無聊《ぶりょう》とは、異郷で邂逅《めぐりあ》う同胞の心を十年の友のように結び着けるのだとも想って見た。彼は一緒にルュキサンブウルの公園を歩いたりリラの珈琲店《コーヒーてん》に腰掛けたりした教授連に比べて見て、どれ程自分のたましいが暗いところにあるかということをも思わずにはいられなかった。
毎日のように並木街をうろうろしている不思議な婦人が窓の硝子を通して彼の眼に映った。恐らく白痴であろうと下宿の食堂に集る人達は噂《うわさ》し合って、誰が命《つ》けるともなく「カロリイン夫人」という名を命けていた。「カロリイン夫人」は紅《あか》い薔薇《ばら》の花のついた帽子を冠《かぶ》り、白の手套《てぶくろ》をはめ、朝から晩までその界隈《かいわい》を往《い》ったり来たりしていた。何を待つかと他目《よそめ》には思われるようなその婦人の姿を窓の下に見つけたことは、一層岸本の心を異郷の旅らしくさせた。
「姪《めい》ゆえにこんな苦悩と悲哀とを得た」
ある仏蘭西の詩人が歌った詩の一節になぞらえて、彼は自分で自分の旅の身を言って見た。丁度そこへ岡という画家が訪ねて来た。
六十七
岡は今更のように岸本の部屋を眺め廻した。壁紙で貼《は》りつめた壁の上には古めかしく大きな銅版画の額が掛っていた。「ソクラテスの死」と題してあって、あの哲学者の最後をあらわした図であったが、セエヌの河岸通《かしどお》りの古道具屋あたりに見つけるものと大して相違の無いような、仏蘭西風の銅版画としては極く有りふれたものであった。岸本が一年近い旅寝の寝台《ねだい》はその額の掛った壁によせて置いてあった。
「この部屋に掛っている額と、岸本さんとは、何の関係があるんです――」
岡は画家らしいことを言って、ロココという建築の様式が流行《はや》った時代のことでも聯想《れんそう》させるような古い版画を眺めた。
「ここの下宿のおかみさんが、あれでも自慢に掛けてくれたんでさ」と岸本が言った。
「ああいうものが掛っていても、岸本さんは気に成りませんかね」
「この節は君、別に気にも成らなくなりましたよ。有っても無くても僕に取っては同じことでさ。旅では君、仕方が無いからね」
国に居た頃から見ると岸本はずっと簡単な生活に慣れて来た。巴里に着いたばかりの頃は外国風の旅館や下宿の殺風景に呆《あき》れて、誰も自分の机の上を片付けてくれる人もないのか、とよくそんな嘆息をしたものであったが、次第に万事人手を借りずに済ませるように成った。着物も自分で畳めば、鬚《ひげ》も自分で剃《そ》った。一週に一度の按摩《あんま》は欠かすことの出来ないものであったが、それも無しに済んだ。彼はずっと昔の書生にもう一度帰って行った。自分と同年配の人を見ると同じ心持で、国から到来した茶でも入れて年下な岡を款待《もてな》そうとしていた。
「僕なぞは君、極楽へ島流しになったようなものです」
と言いながら岸本は椅子を離れた。岸本が極楽と言ったは、学芸を重んずる国という意味を通わせたので。
「極楽へ島流しですか」
と岡も笑出した。
岸本は洗面台の横手にある窓の下へアルコオル・ランプと湯沸《ゆわかし》を取りに行った。それは何処《どこ》かの画室の隅《すみ》に転《ころ》がっていたのを岡が探出して以前に持って来てくれたものであった。留学していた美術家の残して置いて行った形見であった。
「岡君、国から雑誌や新聞が来ましたよ。僕の子供のところからはお清書なぞを送ってよこしました」
「岸本さんは子供は幾人《いくたり》あるんですか」
「四人」
と岸本は言淀《いいよど》んだ。岡はそんなことに頓着《とんじゃく》なく、
「皆東京の方なんですか」
「いえ、二人だけ東京にいます。三番目のやつは郷里《くに》の姉の方に行ってますし、一番末の女の児は常陸《ひたち》の海岸の方へ預けてあります。今生きてるのが、それだけで、僕の子供はもう三人も死んでますよ」
「好い阿父《おとっ》さんの訳だなあ」
ランプに燃えるアルコオルの火を眺めながら、岸本は岡と一緒に国の方の言葉で話をするだけでも、それを楽みに思った。彼の下宿にはヴェルサイユ生れの軍人の子息《むすこ》でソルボンヌの大学へ通っている哲学科の学生と、独逸《ドイツ》人の青年とが泊っていた。同胞を相手に話す時のような気楽さは到底下宿の食堂では味われなかった。岡はまた岸本が勧めた雑誌や新聞を展《ひろ》げて饑《う》え渇《かわ》くようにそれを読もうとした。
六十八
岡は岸本よりも半年ばかり先に巴里へ来た人であった。岸本が旅でこの画家を知るように成ったのは数々の機会からで。ペルランの蔵画を見ようとして一緒に巴里の郊外へ辻馬車《つじばしゃ》を駆《か》った時。マデラインの寺院《おてら》の附近に新画を陳列する美術商店を訪ねた時。テアトルという町での忘年会に二人して過《あやま》って火傷《やけど》をした時。しかし岸本が遽《にわか》に親しみを感じ始めたのは、岡の好きな日本飯屋へ誘われて行って一緒に旅らしく酒を酌《く》みかわした時からであった。その晩から岸本は岡の胸の底に住む秘密を知るように成った。この男の熱意も、誠実も、意中の人の母や兄の心を動かすには足りなかったことを知るように成った。堅く相許した心のまことを置いて、この世の何物が人を幸福ならしめるであろう、そうした遣瀬《やるせ》ない心の述懐には岡は殆《ほとん》ど時の経《た》つのを忘れて話した。意中の人の母に宛《あ》てた激しい手紙を残し、その人の兄とも多年の親しい交りを絶って、そして国を出て来たというこの男の憤りと恨みとはいかなる寛恕《かんじょ》の言葉をも聞入れまいとするようなところがあった。湯沸の湯が煮立った。岸本は町から求めて来た仏蘭西出来の茶碗《ちゃわん》なぞを盆の上に載せ、香ばしいにおいのする国の方の緑茶を注《つ》いで岡に勧めた。
この画家の顔を見ていると、きまりで岸本の胸に浮んで来る年若な留学生があった。ギャラントという言葉をそのまま宛嵌《あては》め得るような、巴里に滞在中も黄色い皮の手套《てぶくろ》を集めていたことがまだ岸本には忘れられずにある青年の紳士らしい風采《ふうさい》をしたその留学生は、ある身上話を残して置いて瑞西《スイス》の方へ出掛けて行った。留学生は国の方で深くねんごろにした一人の若い婦人があったと言った。深窓に人となったようなその婦人は現に人の妻であるとも言った。私費で洋行を思立った留学生が日本を出る動機の中には、すくなくもその若い夫人との関係が潜んでいるらしい口振《くちぶり》であった。その夫人の妊娠ということにも留学生は酷《ひど》く頭をなやましていた。留学生がしばらく巴里に居る間にはよくその話が出て、岡もそれを聞かせられたものの一人であった。
「女のことで西洋へ来ていないようなものは有りゃしません――」
そこまで話を持って行かなければ承知しないようなのが岡だ。それほど岡には山国の農夫のような率直があった。
岡は飲み干した茶碗を暖炉の上のところに置いて、
「昨夜は乞食《こじき》モデルが二三人僕の画室へ押掛けて来ました。勝手にそこいらにある物を探して、酒を奢《おご》らないかなんて言出しやがって……きたないモデルめ……でも酒を飲ましてやりましたら、皆で唄なぞを歌って聞かせましたっけ。それを聞いていたら終《しまい》には可哀そうになっちまいました……」
こんな話をして聞かせる岡の旅は在留する美術家仲間でも骨が折れそうであった。おまけに仏蘭西へ来てから以来《このかた》、ろくろく画を描く気にすらならないというほど心の戦いを続けて来た岡の顔を見ていると、岸本は余計に外国生活の無聊《ぶりょう》な心持を引出された。
六十九
「国の方で炬燵《こたつ》にでもあたっている人は羨《うらや》ましいなんて、よくそんな話を君にしましたっけが、もうそれでもパアク(復活祭)が来るように成りましたね」
こう岸本は岡に言って、やがて連立って下宿を出た。旅で逢《あ》う羅馬《ローマ》旧教の祭が来ていた。帽子から衣裳《いしょう》まで一切黒ずくめの風俗の女達が寺詣の日らしく町を歩いていた。天文台前の広場に近い町の角あたりまで行くと、並木はそこで変って、黄緑な新芽の萌《も》え出したプラタアヌの代りに、早や青々とした若葉を着けたマロニエが見られる。
「もうマロニエの花が咲いていますよ」
と岡は七葉の若葉の生《お》い茂って来た黒ずんだ枝の上の方を岸本に指《さ》して見せた。白い蝋燭《ろうそく》を挿《さ》したような花がその若葉の間から顔を出していた。
「これがマロニエの花ですか」と岸本が言った。
「どうです、好い花でしょう」
「京都大学の先生がストラスブウルから葉書をくれてね、『マロニエが咲いたらなんて話がよく出たからどんな花かと思ったら、つまらない花ですねえ』なんて書いてよこした。これをけなすのは少し酷《ひど》い」
一つ一つ取出して言う程の風情《ふぜい》があるではないが、旅人としての岸本はどこか寂しいその花のすがたに心を引かれた。
「去年の今頃は、丁度僕は船でしたっけ」
と岸本はそれを岡に言って見せた。二人の足はビリエーの舞踏場の前から、ある小さな珈琲店《コーヒーてん》の方へ向いた。小ルュキサンブウルの並木を前にして二人ともよく行って腰掛ける気の置けない店があった。そこが岡の言う「シモンヌの家《うち》」だ。
店先には葡萄酒《ぶどうしゅ》の立飲をしている労働者風の仏蘭西《フランス》人も見えた。帳場のところに居た主婦《かみさん》は親しげな挨拶《あいさつ》と握手とで岡を迎えた。
奥にはテエブルを並べた一室があった。岡と岸本とがそこへ行って腰掛けようとすると、二階の方から壁づたいに階段を降りて来る十六七ばかりの娘があった。パアクの祭の日らしく着更《きか》えた仏蘭西風の黒い衣裳は、瘠《やせ》ぎすで、きゃしゃなその娘の姿によく似合っ
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