ヨ《たよ》りによって知った。亡《な》くなった三人の女の児を入れて数えると、最早彼は七人だけの子の親ではなかった。園子との間に設けたおもてむきの子供の外に、知らない子供が一人|何処《どこ》かに生きていた。彼は極印でも打たれたような額を客舎の硝子窓《ガラスまど》のところへ持って行って、人知れずそのことを自分に言って見た。
義雄兄からの便りには、「例の人」は産後の乳腫《ちちばれ》で手術を受けさせるから、その費用を送れとしてあった。それから一月半ばかりも待つうちに節子は精《くわ》しいことを知らせてよこした。産は重くて骨が折れたが男の子が生れたと彼女の手紙の中に書いてあった。彼女はこまごまと書いてよこした。こんなにお産が重かったのは身体《からだ》を粗末にしていた為であろう、自分はその事を人から言われたと書いてよこした。自分は僅《わず》かに一目しか生れたものの顔を見ることを許されなかったと書いてよこした。その田舎《いなか》に住む子供の無い家の人から懇望されて、嬰児《あかご》は直《す》ぐに引取られて行ったと書いてよこした。例の親切な女医が来ての話に、「あなたのややさんは、それはよくあなたのお父さんに似ていますよ」と言って笑って話してくれたと書いてよこした。その田舎に住む坊さんが名づけ親になって親夫《ちかお》という名を命《つ》けてくれた――実はその名は坊さんが自分の子に命けるつもりで考えて置いたとかいうのを譲ってくれたのだと書いてよこした。生れたものの貰《もら》われて行った先で、どうかしてこの子のお母さんの苗字《みょうじ》だけでも明して欲しい、それを明すことが出来なければ東京のどの辺か――せめて方角だけでも明して欲しいとのことであったが、それだけはお断りすると言って、女医の方で明さなかったと書いてよこした。定めしお父さんの方からの知らせが行ったことと思うが、自分の乳が腫《は》れ痛んで、捨てて置く訳にはいかないと言われて、切開の手術を受ける為にしばらく女医の方へ行っていたと書いてよこした。どうもまだ自分の身体の具合は本当でないから、今しばらくこの産婆の家の二階にとどまるつもりであるが、出来るだけ早くここを去りたいと思うと書いてよこした。つくづく自分はこの二階に居るのが恐ろしくなった、何事につけてもここはお金お金で、地獄にあるような思いをすると書いてよこした。このお産のために自分の髪は心細いほど抜けた、この次叔父さんにお目にかかるのも恥かしいほど赤く短く切れてしまったと書いてよこした。
この節子の手紙を読んで、岸本は心から深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。彼はいくらか重荷をおろしたような気がした。しかしそのために、一度つけてしまった生涯の汚点は打消すべくもなかった。埋めようとすればするほど、余計に罪過は彼の心の底に生きて来た。彼は多くもない旅費の中を割《さ》いて節子が身二つに成るまでの一切の入費に宛《あ》てて来たし、外国から留守宅への仕送りも欠かすことは出来なかったし、義雄兄から請求して来た節子の手術に要する費用も負担せねば成らなかった。旅も容易でなかった。それにも関《かかわ》らず、彼は行けるところまで行こうとした。
六十三
東京|高輪《たかなわ》の留守宅の方に節子を隠して置て嫂《あによめ》の上京も待たずに旅に上って来た心持から言っても、義雄兄に宛てた一通の手紙を残して置いて香港《ホンコン》を離れて来た心持から言っても、岸本は再び兄夫婦を見るつもりで国を出たものではなかった。節子は旅にある叔父に便りすることを忘れないで、彼女が郡部にある片田舎から高輪の方へ戻った時にも精しい手紙を送ってよこしたが、その便りが岸本の手許《てもと》へ着いた頃は、最早ノエル(降誕祭)の季節の近づく年の暮であった。異郷で初めて逢《あ》う正月、羅馬《ローマ》旧教国らしいカアナバルの祭、その肉食の火曜も、ミ・カレエムの日も、彼の旅の心を深くした。彼の下宿には独逸《ドイツ》のミュウニッヒの方から来た慶応の留学生を迎えたり、瑞西《スイス》の方へ行く人を送ったりしたが、それらの人達と連立ってルュキサンブウルの美術館を訪《たず》ねた時でも、ガボオの音楽堂に上った時でも、何時《いつ》でも彼は心の飄泊者《ひょうはくしゃ》としてであった。
「人はいかなる境涯にも慣れるもので、それがまた吾儕《われら》に与えられたる自然の恵みである」と言った人もあったとやら。ある人はまた、「慣れるということほど恐ろしいものは無い」とも言ったとやら。岸本はその二つの言葉の意味に籠《こも》る両様の気質と真実とを味《あじわ》い知った。所詮《しょせん》彼とても慣れずにはいられなかった。そして高い建築物《たてもの》もさ程気に成らず、往来も平気で歩かれ、全く日本風の畳というものも無い部屋に一日腰掛けて暮せる頃は、自分の髪の毛色の違い、自分の皮膚の色の違いを忘れる時すらあるように成った。不思議にも、外界の事物に対してこれ程彼が無頓着《むとんじゃく》に成ったと同時に、外界の事物もまた彼に対して無頓着に成った。彼は自分の部屋の窓の下を往来する人達と全く無関係に生きて行く異邦の旅人としての自分の身をその客舎に見つけた。あだかも獄裡《ごくり》に繋《つな》がるる囚人《しゅうじん》が全く娑婆《しゃば》というものと縁故の無いと同じように。
恐ろしい町の響が岸本の耳につくように成った。一切の刺激から起る激しい感覚が沈まって行くにつれ、そうした響がハッキリと彼の耳に聞えて来た。剣のように尖《とが》った厳《いか》めしく頑固《がんこ》な馬具を着け、真鍮《しんちゅう》の金具《かなぐ》を光らせた幾頭かの馬が大きな荷馬車を引いて行く音、モン・トオロン行の乗合自動車の通う音、並木街を往復する電車の音、その他石造の街路から起る町の響が、高い建築物の間に響けて、岸本の部屋の硝子窓に揺れるように伝わって来た。それを聞くと遽《にわ》かに故国も遠くなった。彼はそろそろ外国生活の無聊《ぶりょう》がやって来たことを感じた。
苦難はもとより彼の心に期するところであった。どんなにでもして彼は耐えがたい無聊と戦わねば成らなかった。そして心の飄泊を続けねば成らなかった。
六十四
復活祭も近づいて来ていた。東京の留守宅へ戻って行ってからの節子は折ある毎《ごと》に泉太や繁のことを書いて、それに彼女の境遇を訴えてよこした。岸本はあの片田舎の家の方から品川の停車場《ステーション》まで帰って来て、そこで迎えの嫂と一緒に成ったという時の彼女を想いやることも出来た。彼女の母にも姉の輝子にも男の子の生れている高輪の家へもう一度帰って行った時の彼女を想いやることも出来た。多くの知人や親戚《しんせき》から祝わるる姉の子供に比べて、誰一人顧るものもない彼女に生れた子供こそその実この世に幸福なものであると言ってよこした彼女の女らしい負惜みを思いやることも出来た。あの事があってからの父は別の人かと思われるほど彼女に優しく、叔父さんから父|宛《あて》に来た手紙もこっそり彼女の机の上に置いてくれるほどの人になったと言うような、とかく母に対して気まずい思いをしているらしい彼女を遠く想いやることも出来た。「実に可哀そうなことをした」この憐《あわれ》みの心は自ら責むる心と一緒になって何時でも岸本に起って来た。
異郷の旅の心を慰めるために、岸本は自分の部屋にある箪笥《たんす》の前に行った。箪笥とは言っても、鏡を張った開き戸のある置戸棚《おきとだな》に近い。その抽筐《ひきだし》の中から国の方の親戚や友人の写真を取出した。義雄兄の家族一同で撮《と》った写真も出て来た。それは最近に東京から送って来たのであった。高輪の家の庭の一部がそっくりその写真の中にある。南向の縁側の上には蒲団《ふとん》を敷いて坐った祖母《おばあ》さんが居る。庭には嬰児《あかご》を抱いて立つ輝子が一番前の方に居る。二人の少年が庭石の上に立っている。その一人は義雄兄の子供で、一人は繁だ。兄さんらしく撮れた泉太の姿をその弟の傍に見ることも出来る。義雄兄が居る。嫂が居る。嫂はその家で生れた男の児を抱いている。岸本は兄夫婦の写真顔をすら平気では眺《なが》められなかった。一番|後方《うしろ》に立つのが変り果てた節子の面影であった。娘らしく豊かな以前の胸のあたりは最早彼女に見られなかった。特色のある長い生《は》えさがりは一層彼女の頬《ほお》を痩《や》せ細ったように見せていた。
「自分は、人一人をこんなにしてしまったのか」
それを思うと岸本は恐ろしくなってその写真を抽筐の底に隠した。
六十五
山羊《やぎ》の乳売の笛で岸本は自分の部屋に眼を覚《さ》ました。巴里《パリ》のような大きな都会の空気の中にもそうした牧歌的なメロディの流れているかと思われるような笛の音《ね》がまだ朝の中の硝子窓に伝わって来た。旅らしい心持で、その細い清《す》んだ音に耳を澄ましながら、岸本は窓に向いた机のところで小さな朝飯の盆に対《むか》った。それを済ました時分に、女中が来てコンコンと軽く部屋の戸を叩《たた》く音をさせた。何時でも西伯利亜《シベリア》経由とした郵便物の来るのは朝の配達と極《きま》っていた。その時彼は新聞や雑誌や手紙の集まったのをドカリと一時に受取った。待たれた故国からの便りの中には、節子の手紙も混っていた。
「ホウ、泉ちゃんが御清書を送ってよこした」
と岸本は言って見て、外国に居て見ればめずらしいほど大きく書いた子供の文字を展《ひろ》げて見た。それから節子の手紙を読んだ。何と言ってよこしても直接には答えないで黙っている叔父に宛《あ》てて、彼女は根気好くも書いてよこした。叔父さんの旅の便りが新聞に出る度《たび》に、自分はそれを読むのをこの上もない心の慰めとしていると書いてよこした。叔父さんに別れた頃の季節が復た回《めぐ》って来たと書いてよこした。遠く行く叔父さんを見送った時の心持が復た自分に帰って来たと書いてよこした。この高輪の家の庭先に佇立《たたず》んで品川の方に起る汽車の音を聞いた時のことまでしきりに思出されると書いてよこした。
岸本は自分の旅の心を昔の人の旅の歌に寄せて、故国の新聞への便りのはじに書きつけて送ったこともあった。節子はその古歌を引いて、同じ昔の人の詠《よ》んだ歌の文句をさながら彼女の遣瀬《やるせ》ない述懐のように手紙の中に書いてよこした。
「つきやあらぬ、
はるや昔の
はるならぬ、
わがみひとつは
もとのみにして」
先頃《さきごろ》送った家中で撮《と》った写真を叔父さんはどう見たろうとも彼女は書いてよこした。あの中に居る自分はまるで幽霊のように撮れて、ああした写真で叔父さんにお目に掛るのも恥かしいと書いてよこした。その事を母に話して叱《しか》られたと書いてよこした。彼女は浅草の家の方で使っていた婆やのことも書いてよこした。婆やは今でも時々訪ねて来てくれるが、自分は家にある雑誌なぞを貸与えて婆やの機嫌《きげん》を取って置いたと書いてよこした。「婆やは可恐《こお》うございますからね」と書いてよこした。
旅に上ってから以来《このかた》、引続き岸本はこうした調子の手紙を節子から受取った。彼は東京を去って神戸まで動いた時に、既に彼女の心に起って来た思いがけない変化を感じたのであった。彼は一切から離れようとして国を出たものだ。けれども彼の方で節子から遠ざかろうとすればするほど、不幸な姪の心は余計に彼を追って来た。飽くまでも彼はこうした節子の手紙に対して沈黙を守ろうとした。彼は節子の手紙を読む度《たび》に、自分の傷口が破れてはそこから血の流れる思いをした。嘆息して、岸本は机に対《むか》った。書架の上から淡黄色な紙表紙の書籍を取出して来て、自分の心をその方へ向けた。そして側目《わきめ》もふらずに新しい言葉の世界へ行こうとした。英訳を通して日頃親しんでいた書籍の原本を手にすることすら彼には楽しかった。彼は既に読みたいと思うかずかずの書籍を有《
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