A国の方で別れて来た人達と彼自身との隔たりを思わせた。一日は一日よりそれらの人達から遠ざかり行くことをも思わせた。あの東京浅草の七年住慣れた住居の二階から、あの身動きすることさえも厭《いと》わしく思うように成った壁の側から、ともかくもその波の上まで動くことが出来た不思議をも胸に浮べさせた。彼は深林の奥を指《さ》して急ぐ傷《きずつ》いた獣に自分の身を譬《たと》えて見た。
海風の烈《はげ》しさに、岸本は高い甲板を離れた。船梯子に沿うて長い廊下を見るような下の甲板に降りた。そこにも一人二人の仏蘭西人の客しか見えなかった。明るい黄緑な色の海は後方《うしろ》にして出て来た故国の春の方へ岸本の心を誘った。彼は上海の方で見て来た李鴻章《りこうしょう》の故廟《こびょう》に咲いた桃の花がそこにも春の深さを語っていたことを胸に浮べた。その支那風《しなふう》な濃い花の姿は日頃花好きな姪《めい》にでも見せたいものであったことを胸に浮べた。彼はまた、上海へ来るまでの途中で、どれ程彼女の父親に宛てようとした一通の手紙のために苦しんだかを胸に浮べた。神戸の宿屋で義雄兄から彼が受取った手紙の中には、兄その人も彼の外遊から動かされたと書いてあったことを胸に浮べた。その手紙の中には、恐らく露領の方にある輝子の夫もこれを聞いたなら刺激を受くるであろうと思うと書いてあったことを胸に浮べた。そうした手紙をくれるほどの兄の心を考えると、節子の苦しんでいることに就《つ》いて岸本の方から書き得る言葉も無かったのである。
香港を指《さ》して進んで行く船の煙突からは、さかんな石炭の煙が海風に送られて来て、どうかすると波の上の方へ低く靡《なび》いた。岸本は香港から国の方へ向う便船の日数を考えた。嫂《あによめ》が節子と一緒になってから既に十八九日の日数が経《た》つことをも考えた。否《いや》でも応でも彼は香港への航海中に書きにくい手紙を書く必要に迫られた。その機会を失えば、次の港は仏領のセエゴンまでも行かなければ成らなかった。
五十一
船室に行って岸本は旅の鞄《かばん》の中から手紙書く紙を取出した。セエゴンから東の港は乗客も少いという仏蘭西《フランス》船の中で、六つ船床のある部屋を岸本一人に宛行《あてが》われたほどのひっそりとした時を幸いにして、彼は国の方に残して行く義雄兄宛の手紙を書こうとした。円い船窓に映る波の反射は余計にその部屋を静かにして見せた。彼は波に揺られていることも忘れて書いた。この手紙は上海を去って香港への航海中にある仏蘭西船で認《したた》めると書いた。神戸を去る時に書こうとしても書けず、余儀なく上海から送るつもりでそれも出来なかった手紙であると書いた。自分が新橋を出発する時も、神戸を去る時も、思いがけない見送りなどを受けたのであるが、それにも関《かかわ》らず自分は悄然《しょうぜん》として別れを告げて来たものであると書いた。何故に自分が母親のない子供等を残してこうした旅に上って来たか、その自分の心事は誰にも言わずにあるが、大兄だけにはそれを告げて行かねば成らないと書いた。多くの友人も既にこの世を去り、甥《おい》も妻も去った中で、自分のようなものが生き残って今また大兄にまで嘆きをかける自分の愚かしい性質を悲しむと書いた。自分は弟の身として、大兄の前にこんなことの言えた訳ではないが、忍び難いのを忍ぶ必要に迫られたと書いた。自分が責任をもって大兄から預かった節子は今はただならぬ身《からだ》であると書いた。それが自分の不徳の致すところであると書いた。自分の旧《ふる》い住居《すまい》の周囲は大兄の知らるるごとくであって、種々な交遊の関係から自然と自分も酒席に出入したことはあるが、そのために身を過《あやま》つようなことは無かったと書いた。その自分がこうした恥の多い手紙を書かなければ成らないと書いた。今から思えば、自分が大兄の娘を預かって、すこしでも世話をしたいと思ったのが過りであると書いた。実に自分は親戚《しんせき》にも友人にも相談の出来ないような罪の深いことを仕出来《しでか》し、無垢《むく》な処女《おとめ》の一生を過り、そのために自分も曾《かつ》て経験したことの無いような深刻な思を経験したと書いた。節子は罪の無いものであると書いた。彼女を許して欲しいと書いた。彼女を救って欲しいと書いた。家を移し、姉上の上京を乞《こ》い、比較的に安全な位置に彼女を置いて来たというのも、それは皆彼女のために計ったことであると書いた。この手紙を受取られた時の大兄の驚きと悲しみとは想像するにも余りあることであると書いた。とても自分は大兄に合せ得る顔を有《も》つものでは無いと書いた。書くべき言葉を有つものでも無いと書いた。唯《ただ》、節子のためにこの無礼な手紙を残して行くと書いた。自分は遠い異郷に去って、激しい自分の運命を哭《こく》したいと思うと書いた。義雄大兄、捨吉拝と書いた。
五十二
三十七日の船旅の後で、岸本は仏蘭西マルセエユの港に着いた。
「あのプラタアヌの並木の美しいマルセエユの港で、この葉書を受取って下さるかと思うと愉快です」
こうした意味の葉書を岸本はその港に着いて読むことが出来た。船の事務長が岸本の名を呼んでその葉書を渡してくれた。多くの仏蘭西人の船客の中でも、便《たよ》りの待遠しいその港で葉書なり手紙なりを受取るものは稀《まれ》であった。岸本が神戸を去る時船まで見送って来た番町の友人がその葉書を西伯利亜《シベリア》経由にして、東京の方から出して置いてくれたからで。
初めて欧羅巴《ヨーロッパ》の土を踏んだ岸本は、上陸した翌日、マルセエユの港にあるノオトル・ダムの寺院《おてら》を指して崖《がけ》の間の路《みち》を上って行った。その時は一人の旅の道連《みちづれ》があった。コロンボの港(印度《インド》、錫蘭《セーロン》)からポオト・セエドまで同船した日本の絹商で、一度船の中で手を分った人に岸本は復《ま》たその港で一緒に成ったのであった。絹商は倫敦《ロンドン》まで行く人で外国の旅に慣れていた。御蔭《おかげ》と岸本は好い案内者を得た。高い崖に添うて日のあたった路《みち》を上りきると、古い石造の寺院の前へ出た。欧羅巴風な港町の眺望《ちょうぼう》は崖の下の方に展《ひら》けた。
海は遠く青く光った。その海が地中海だ。ポオト・セエドからマルセエユの港まで乗って来る間で、一日岸本が高い波に遭遇《であ》った地中海だ。眼の下にある黄ばみを帯びた白い崖の土と、新しい草とは、一層その海の色を青く見せた。岸本は自分の乗って来た二本|煙筒《えんとつ》の汽船が波止場近くに碇泊《ていはく》しているのをその高い位置から下瞰《みおろ》して、実にはるばると旅して来たことを思った。
寺院《おてら》の入口に立つまだ年若な一人の尼僧《あまさん》が岸本に近づいた。遠く東洋の空の方から来た旅人としての彼を見て何か寄附でも求めるらしく鉄鉢《てっぱつ》のかたちに似た器を差出して見せた。その尼僧は仏蘭西人だ。一人の乞食《こじき》が石段のところに腰を掛けていた。その乞食も仏蘭西人だ。岸本は絹商と連立って寺院の入口にある石段を昇って見た。入口の片隅《かたすみ》には、故国《くに》の方の娘達にしても悦《よろこ》びそうな白と薄紫との木製の珠数《ずず》を売る老婆《ばあさん》があった。その老婆も仏蘭西人だ。岸本は本堂の天井の下に立って見た。薄暗い石の壁の上には、航海者の祈願を籠《こ》めて寄附したものでもあるらしい船の図の額が掛っていた。寺院の番人に案内されて、更に奥深く行って見た。彩硝子《いろガラス》の窓から射《さ》し入る静かな日の光は羅馬《ローマ》旧教風な聖母マリアの金色の像と、その辺に置いてある古めかしく物錆《ものさ》びた風琴《オルガン》などを照して見せた。その番人も仏蘭西人だ。そこはもう岸本に取って全く知らない人達の中であった。
あわただしい旅の心持の中でも、香港《ホンコン》から故国の方へ残して置いて来た手紙のことは一日も岸本の心に掛らない日は無かった。その晩の夜行汽車で、彼は絹商と一緒に巴里へ向けて発《た》った。
五十三
遠く目ざして行った巴里《パリ》に岸本が入ったのは、船から上って四日目の朝であった。彼は巴里までの途中で同行の絹商と一緒に一日をリヨンに送って行った。ガール・ド・リヨンとは初て彼が巴里に着いた時の高い時計台のある停車場《ステーション》であった。そこで彼は倫敦行の絹商に別れ、辻馬車《つじばしゃ》を雇って旅の荷物と一緒に乗った。晴雨兼帯とも言いたい馬丁《べっとう》の冠《かぶ》った高帽子まで彼にはめずらしい物であった。彼は右を見、左を見して、初めてセエヌ河を渡った。まだ町々の響も喧《かしま》しくない五月下旬の朝のうちのことで、マルセエユやリヨンで見て行ったと同じプラタアヌの並木が両側にやわらかい若葉を着けた街路の中を乗って行った時は、馬丁の鳴らす鞭《むち》の音や石道を踏んで行く馬の蹄《ひづめ》の音まで彼の耳に快よく聞えた。
巴里の天文台に近い並木街の一角にある下宿が岸本を待っていた。その辺の往来には朝通いらしい人達、労働者、牛乳の壜《びん》を提《さ》げた娘、野菜の買出しに出掛ける女連《おんなれん》なぞが岸本の眼についた。下宿の女中と家番《やばん》のかみさんとが来て彼の荷物を運んでくれたが、言葉は一切通じなかった。彼は七層ばかりある建築物《たてもの》の内の第一階の戸口のところで、年とった壮健《じょうぶ》そうな婦《おんな》の赤黒い朝の寝衣《ねまき》のままで出て迎えるのに逢った。その人が下宿の主婦《かみさん》であった。この主婦の言うことも岸本には通じなかった。
客扱いに慣れたらしい主婦は一人の日本人を岸本のところへ連れて来た。その下宿に泊っている留学生で、かねて岸本は番町の友人から名前を聞いて来た人だ。長く外国生活をして来た人らしいことは一目見たばかりで岸本にも直《すぐ》にそれと分った。岸本は巴里へ来て最初に逢ったこの留学生から下宿の主婦の言おうとすることを聞取った。部屋へも案内された。
留学生は食事の時間なぞを岸本に説明して聞かせた後で言った。
「この主婦が君にそう言って下さいッて――『寝衣のままで大変失礼しました、いずれ着物を着更《きか》えてから改めて御挨拶《ごあいさつ》します』ッて。君の着くのが今朝早かったからね」
それを聞いていた主婦は留学生と岸本の顔を見比べて、
「お解《わか》りでございましたか」
という風に、両手を岸本の方へひろげて見せた。
独りで部屋に残って見ると、まだ岸本には船にでも揺られているような長道中の気持が失せなかった。旅慣れない彼に取っては、外国人ばかりの中に混って航海を続けて来たというだけでも一仕事であった。熱帯の光と熱とは彼の想像以上であった。その色彩も夢のようであった。時には彼は自分独りぎめに「海の砂漠《さばく》」という名をつけて形容して見たほど、遠い陸は言うに及ばず、船|一艘《いっそう》、鳥一羽、何一つ彼の眼には映じない広い際涯《はてし》の無い海の上で、その照光と、その寂寞《せきばく》と、その不滅とを味《あじわ》って来たこともあった。印度洋にさしかかる頃から船客はいずれも甲板《かんぱん》の上に出て眠ったが、彼も欄《てすり》近く籐椅子《とういす》を持出して暗い波を流れる青ざめた燐《りん》の光を眺めながら幾晩か眠り難い夜を過したこともあった。船は紅海《こうかい》の入口にあたる仏領ジュプティの港へも寄って石炭を積んで来た。スエズで望んで来た小|亜細亜《アジア》と亜弗利加《アフリカ》の荒原、ポオト・セエドを離れてから初めて眺めた地中海の波、伊太利《イタリー》の南端――こう数えて見ると、遠く旅して来た地方の印象が実に数限りもなく彼の胸に浮んで来た。
五十四
新しい言葉を学ぶことによって、岸本は心の悲哀《かなしみ》を忘れようと志した。同宿の留学生が天文台の近くに住む語学の教師を彼に紹介した。その
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