ヲた夫を待っている岸本の姉が居た。太一の妹が居た。岸本が三番目の男の児はその姉の家に托してあった。
節子のことを案じ煩《わずら》いながら、岸本はポツポツ鈴木の兄の話すことを聞いた。台湾地方の熱い日に焼けて来た流浪者を前に置いて、岸本はまだこの人が大蔵省の官吏であった頃の立派な威厳のあった風采《ふうさい》を思出すことが出来る。岸本が少年の頃に流行した猟虎《らっこ》の帽子なぞを冠《かぶ》ったこの人の紳士らしい風采を思出すことが出来る。彼が九つの歳《とし》に東京へ出て来た時、初めて身を寄せたのはこの人の家であって、よくこの人から漢籍の素読なぞを受けた幼い日のことを思出すことが出来る。岸本がこの人と姉との側に少年の時代を送ったのは一年ばかりに過ぎなかったが、しかしその間に受けた愛情は幼い彼の心に深く刻みつけられていた。それからずっと後になって、この人の身の上には種々《さまざま》な変化が起り、その行いには烈《はげ》しい非難を受けるような事も多かった。そういう中でも、猶《なお》岸本が周囲の人のようにはこの人を考えていなかったというのは、全く彼が少年の時に受けた温い深切《しんせつ》の為で――丁度、
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