フ不安が二人を支配した。岸本は膳を前にして、黙って節子と対い合うことが多かった。
「叔父さん、めずらしいお客さまがいらっしゃいましたよ」
 と楼梯《はしごだん》の下から呼ぶ節子の声を聞きつけた時は、岸本は自分の書斎に居た。客のある度《たび》に彼は胸を騒がせた。その度に、節子を隠そうとする心が何よりも先に起《おこ》って来た。
 丁度町でも家の内でもそろそろ燈火《あかり》の点《つ》く頃であった。岸本は階下《した》へ降りて行って見た。十年も彼のところへは消息の絶えていた鈴木の兄が、彼から言えば郷里の方にある実の姉の夫にあたる人が、人目を憚《はばか》るような落魄《らくはく》した姿をして、薄暗い庭先の八ツ手の側に立っていた。
 岸本はこの珍客が火点《ひとも》し頃《ごろ》を選んでこっそりと訪《たず》ねて来た意味を直《す》ぐに読んだ。傷《いた》ましい旅窶《たびやつ》れのしたその様子で。手にした風呂敷包と古びた帽子とで。十年も前に見た鈴木の兄に比べると、旅で年とったその容貌《おもばせ》で。この人が亡くなった甥《おい》の太一の父親であった。
 妻子を捨てて家出をした鈴木の兄は岸本の思惑《おもわく》を憚る
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