オって……」と年嵩な女中は言いかけたが、急に気を変えて、「まあ、殿方のことばかり申上げて相済みません」
 そう言いながら女中は自分の膝《ひざ》の上に手を置いて御辞儀した。
「歌の一つも聞かせて下さい」
 と岸本は言出した。すこしの酒が直《す》ぐに顔へ発しる方の彼も、その日は毎時《いつも》のように酔わなかった。

        十九

 生きたいと思う心を岸本に起させるものは、不思議にも俗謡を聞く時であった。酒の興を添えにその二階座敷へ来ていた女の一人は、日頃岸本が上方唄《かみがたうた》なぞの好きなことを知っていて、古い、沈んだ、陰気なほど静かな三味線《しゃみせん》の調子に合せて歌った。

  「心づくしのナ
  この年月《としつき》を、
  いつか思ひの
  はるゝやと、
  心ひとつに
  あきらめん――
  よしや世の中」

 いかなる人に聞かせるために、いかなる人の原作したものとも知れないような古い唄《うた》の文句が、熟した李《すもも》のように色の褪《さ》め変った女の口唇《くちびる》から流れて来た。

  「みじか夜の
  ゆめはあやなし、
  そのうつり香の
  悪《に》くて
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