アとを離れてしまった。
「岸本先生は何をそんなに考えていらっしゃるんですか」
 と年嵩な方の女中が岸本の顔を見て言った。
「私ですか……」と岸本は自分の前にある盃を眺めながら、「考えたところで仕方のないことを考えていますよ」
「今日は何物《なんに》も召上って下さらないじゃありませんか。折角のお露《つゆ》が冷《さ》めてしまいます」
「私は先刻《さっき》からそう思って拝見しているところなんですけれど、今日は先生のお顔色も好くない」ともう一人の女中が言い添えた。
「ほんとに岸本先生はお目にかかる度《たんび》に違ってお見えなさる……紅い顔をしていらっしゃるかと思うと、どうかなすったんじゃないかと思うほど蒼《あお》い顔をしていらっしゃることがある……」
 こうそこへ来て酒の興を添えている年の若い痩《や》せぎすな女も言った。岸本はこの女がまだ赤い襟《えり》を掛けているようなほんの小娘の時分から贔屓《ひいき》にして、宴会なぞのある時にはよく呼んで働いて貰うことにしていた。この人も最早《もう》若草のように延びた。
「そこへ行くと、元園町の先生の方は何時見てもお変りなさらない。何時見てもニコニコしていら
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