ス。何事も打明けて相談して見たら随分力に成ってくれそうな、思慮と激情とが同時に一人の人にあるこの友人の顔を見ながら、岸本は自分の身に起ったことを仄《ほのめ》かそうともしなかった。それを仄かすことすら羞《は》じた。
「先生、お熱いのが参りました」
 女中の一人が勧めてくれるのを盃《さかずき》に受けて、岸本は皆の楽しい話声を聞きながら、すこしばかりの酒をやっていた。何時《いつ》の間にか彼の心はずっと以前に就《つ》いて学んだことのある旧師の方へ行った。その先生が三度目に結婚した奥さんの方へ行った。その奥さんの若い妹の方へ行った。花なぞを植えて静かに老年の時を送ろうとした先生がしばらく奥さんと別れ住んでいたというその幽棲《すまい》の方へ行った。先生と奥さんの妹との関係は、岸本と姪との関係に似ているかどうかそこまでは彼もよく知らなかったが、すくなくも結果に於《お》いては似ていた。深夜に人知れずある医師の門を叩《たた》いたという先生の心の懊悩《おうのう》を岸本は自分の胸に描いて見た。道理ある医師の言葉に服して再びその門を出たという先生の悔恨をも胸に描いて見た。しばらく彼の心は眼前《めのまえ》にある
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