りげにそこいらを歩いて見た。節子は婆やを相手に勝手で働いていた。時には彼女は小部屋にある鼠不入《ねずみいらず》の前に立って、その中から鰹節《かつおぶし》の箱を取出し、それを勝手の方へ持って行って削った。すこしもまだ彼女の様子には人の目につくような変ったところは無かった。起居《たちい》にも。動作にも。それを見て、岸本は一時的ながらもやや安心した。
 節子を見た眼で岸本は婆やを見た。婆やは流許《ながしもと》に腰を曲《こご》めて威勢よく働いていた。正直で、働き好きで、丈夫一式を自慢に奉公しているこの婆やは、肺病で亡くなった旧《ふる》い学友の世話で、あの学友が悪い顔付はしながらもまだ床に就《つ》くほどではなく岸本のところへよく人生の不如意を嘆きに来た頃に、そこの細君に連れられて目見えに来たものであった。水道の栓《せん》から迸《ほとばし》るように流れ落ちて来る勢いの好い水の音を聞きながら鍋《なべ》の一つも洗う時を、この婆やは最も得意にしていた。
 何となく節子は一番彼女に近い婆やを恐れるように成った。それにも関《かかわ》らず、彼女は冷静を保っていた。

        十六

「旦那《だんな》
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