ウんは今朝《けさ》はどうかなすったんですか。御飯も召上らず」
 二階へ雑巾《ぞうきん》がけに来た婆やがそれを岸本に訊《き》いた。
「今朝は旦那さんのお好きな味噌汁《おみおつけ》がほんとにオイしく出来ましたよ」とまた婆やが言った。
「なに、一度ぐらい食べないようなことは、俺《おれ》はよくある」と岸本は一刻も働かずにじっとしてはいられないような婆やの方を見て言った。「まあ俺の方はどうでも可《い》い。お前達は子供をよく見てくれ」
「なにしろ旦那さんの身体《からだ》は大事な身体だ。旦那さんが弱った日にゃ、吾家《うち》じゃほんとに仕様がない。よくそれでも一人で何もかもやっていらっしゃるッて、この近所の人達が皆そう言っていますよ。ほんとに吾家の旦那さんは、堅い方ですッて……」
 雑巾を掛けながら婆やの話すことを岸本は黙って聞いていた。やがて婆やは階下《した》へ降りて行った。岸本は独りで手を揉《も》んで見た。
 岸本は人知れず自分の顔を紅《あか》めずにはいられなかった。もしあの河岸《かし》の柳並木のかげを往来した未知の青年のような柔《やわらか》い心をもった人が、自分の行いを知ったなら。あの恩人の家の
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